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夜想曲と紡がれた亡霊

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見えない演奏者

月村 奏子 | 2026-03-22

桜井樹里は翌日の夜も、足音を忍ばせながら音楽棟の階段を上っていた。昼間の授業中、頭の中で何度も昨夜の出来事を反芻していた。あの美しいピアノの旋律、そして「静香」と書かれた楽譜。現実離れした体験だったが、確かに自分の心の奥深くに響き続けている。

 四階の廊下に足を踏み入れると、昨夜と同じ静寂が樹里を包んだ。非常灯の薄明かりが長い廊下を仄かに照らし、練習室のドアが規則正しく並んでいる。樹里は息を殺しながら、昨夜ピアノの音が聞こえた練習室の前で立ち止まった。

 ドアノブに手をかけると、金属の冷たさが指先に伝わってくる。ゆっくりと扉を開けると、中は相変わらず誰もいない。グランドピアノが月光に照らされ、まるで眠っている巨大な黒い獣のようにそこに佇んでいた。

「昨日は、確かにここから音が聞こえたのに」

 樹里は呟きながら室内に入り、ピアノのベンチに腰を下ろした。鍵盤に指を置くと、象牙の感触が懐かしく指先に馴染んだ。何気なくショパンの夜想曲を弾き始める。しかし、どこか物足りない。昨夜聞いたあの魂のこもった演奏と比べると、自分の音楽がいかに表面的で薄っぺらいものか思い知らされる。

 ふと、鍵盤から手を離した時だった。

 カタン。

 微かな音が室内に響いた。樹里は振り返ったが、誰もいない。気のせいかと思い、再びピアノに向き直ろうとした時、今度ははっきりとピアノの音が聞こえた。一つ、また一つと、まるで誰かが鍵盤を慎重に押しているかのように。

 樹里は息を呑んだ。目の前の鍵盤が、確かに動いているのだ。白鍵が音もなく沈み込み、美しい旋律を奏でていく。それは昨夜聞いたピアノ曲とは違う、もっと深く、もっと切ない調べだった。

「え、うそ……」

 樹里は椅子から立ち上がろうとしたが、足がすくんで動かない。恐怖と好奇心が胸の中で激しくぶつかり合い、心臓の鼓動が耳に響いた。しかし、響き続ける音楽は余りにも美しく、恐怖を上回る魅力で樹里を縛り付けた。

 見えない指が奏でる旋律は、まるで樹里の心の奥底に直接語りかけてくるようだった。技術的には完璧でありながら、そこには人間の深い感情が込められている。悲しみ、喜び、そして何より音楽への純粋な愛が、空気を震わせて樹里の魂を揺さぶった。

 曲が進むにつれて、樹里の恐怖は次第に薄れていった。代わりに湧き上がってきたのは、この見えない演奏者への深い敬意だった。これほどまでに美しい音楽を奏でることができる存在が、この練習室にいる。それがどのような存在であれ、音楽への愛は本物だ。

 演奏が静かに終わると、室内は再び深い静寂に包まれた。鍵盤はもう動かない。まるで今の出来事が幻だったかのように、ピアノは静まり返っている。

 樹里は恐る恐る声をかけてみた。

「あの、聞こえますか? とても美しい演奏でした」

 返事はない。しかし、空気が微かに動いたような気がした。樹里は続けた。

「私も音楽を学んでいる学生です。もしよろしければ、お話を聞かせていただけませんか?」

 沈黙が続いた。樹里が諦めかけた時、ピアノの鍵盤がまた動き始めた。今度は短いフレーズを繰り返し奏でている。まるで返事をしているかのようだった。

 突然、樹里の脳裏に映像が浮かんだ。燕尾服を着た背の高い男性が、同じグランドピアノの前に座っている。その横顔は気品に満ち、細長い指が鍵盤の上を優雅に舞っていた。しかし、その表情には深い苦悩が刻まれている。

「あなたは……」

 樹里が言いかけた時、映像は消えた。同時にピアノの音も止む。室内には再び静寂が戻ったが、空気中には何か重いものが漂っているのを樹里は感じ取った。

 恐れと畏敬の念が混じり合いながら、樹里は立ち上がった。今夜の体験は昨夜以上に衝撃的だった。見えない存在が実際にピアノを演奏し、自分に何かを伝えようとしている。それがどのような存在なのか、なぜここにいるのか、樹里にはまだ分からない。

 練習室を出る前に、樹里は振り返ってもう一度室内を見回した。

「また来ます。今度は、あなたの音楽をもっとちゃんと聞かせてください」

 そう言い残して、樹里は静かにドアを閉めた。廊下を歩きながら、胸の奥で何かが変わり始めているのを感じていた。音楽への向き合い方、そして自分自身への問いかけが、昨日とは明らかに違っている。

 翌朝の個人レッスンで、樹里の演奏を聞いた佐々木教授は眉をひそめた。

「桜井君、何か変わったことでもあったかね? 昨日とは音色が違う」

 樹里は慌てて首を振った。まさか夜中に見えない演奏者と出会ったなどとは言えない。

「いえ、特に何も」

「そうか……しかし、君の音楽に深みが出てきている。何かを探し求めているような、そんな響きだ」

 教授の言葉に、樹里の心臓が跳ね上がった。自分でも気づかないうちに、昨夜の体験が演奏に影響を与えているのかもしれない。

 その日の夕方、樹里は図書館で音楽史の本を読み漁った。古い校舎の歴史、戦前から続くこの音楽大学について調べてみたかったのだ。しかし、詳しい記録は見つからない。ただ、戦時中に多くの音楽家たちがこの場所に関わっていたという記述をいくつか見つけただけだった。

 夜が更けて、再び樹里は四階へと向かった。今度は心の準備ができていた。恐怖よりも期待の方が大きい。見えない演奏者は、きっと自分に何か大切なことを教えてくれるはずだ。

 練習室のドアを開けると、今夜も室内は静まり返っていた。しかし、樹里が椅子に座ると間もなく、鍵盤が動き始めた。昨夜よりもはっきりと、より感情豊かな演奏が響く。

 音楽に聞き入っていた樹里は、ふと楽譜立てに視線を向けた。そこには昨日と同じように、手書きの楽譜が置かれている。今度は「エドワード」という署名が楽譜の下に書かれていた。

第2話 見えない演奏者 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版