秋の陽が傾く頃、樹里は佐々木教授の研究室を訪れていた。扉の向こうから聞こえる古いクラシックレコードの音色が、石造りの廊下に響いている。樹里がノックをすると、音楽が止まり、しわがれた声が「どうぞ」と答えた。
研究室は古い楽譜と音楽史の資料で埋め尽くされていた。壁一面の書棚には、樹里が見たこともない貴重な文献が並んでいる。窓際の机で、佐々木教授が老眼鏡をかけたまま振り返った。
「桜井さん、お疲れさまでした。座ってください」
教授の声には、いつもの穏やかさとは違う緊張感が漂っていた。樹里は促されるままに椅子に腰を下ろす。教授の視線が、彼女の指先に向けられているのに気づいた。包帯を巻いた指は、まだ鈍い痛みを残している。
「その怪我、練習のし過ぎですか」
「はい……少し、熱中してしまって」
樹里は曖昧に答えた。エドワードとの約束を、どう説明すればよいのか分からない。教授はしばらく彼女を見つめていたが、やがて深いため息をついた。
「桜井さん、あなたに話さなければならないことがあります」
教授は立ち上がり、書棚の奥から一冊のファイルを取り出した。古い写真と新聞の切り抜きが挟まれている。
「この大学には、長い歴史があります。多くの才能ある学生たちが学び、巣立っていきました。しかし……時として、異常な出来事も起こってきたのです」
教授がファイルを開くと、白黒の写真が現れた。若い女性が写っている。樹里と同じくらいの年齢だろうか。美しい顔立ちだが、その目には何か憑かれたような光が宿っていた。
「昭和三十年代のことです。彼女の名前は山田美津子。当時のピアノ科の学生でした」
樹里は写真を見つめた。女性の指は異様に細く、まるで骨と皮だけのように見える。
「美津子さんは、ある時期から練習に異常な執着を見せるようになりました。昼夜を問わず練習室にこもり、血が滲んでも弾き続ける。まるで何かに取り憑かれたように」
樹里の胸が締め付けられた。自分の状況と重なる部分があまりにも多い。
「最初は、音楽への情熱だと思われていました。しかし次第に、彼女の様子がおかしくなっていったのです。体重は激減し、目は血走り、まともに会話もできなくなった」
教授はページをめくった。次の写真には、やつれ果てた美津子が写っている。頬がこけ、目は虚ろで、まるで生きた人間とは思えないほどだった。
「そして、ある夜のことです。深夜の練習室で、美津子さんが倒れているのが発見されました。心臓麻痺でした。まだ二十歳だったというのに」
「そんな……」
樹里の声は震えていた。教授は優しい目で彼女を見つめる。
「これは特別な例ではありません」
教授は別の写真を取り出した。今度は男性だった。やはり学生らしく、制服を着ている。
「昭和四十年代の作曲科の学生、井上健一君。彼も同様の症状を見せ、最後は精神的な錯乱状態で入院することになりました。退院後、彼は音楽を完全に諦めました」
次々と写真が現れる。時代は違うが、皆同じような経過を辿っている。異常な練習への執着、体調の悪化、そして悲劇的な結末。
「平成に入ってからも、何人かの学生が同じような状況に陥りました。幸い命に関わることはありませんでしたが、皆音楽の道を諦めることになったのです」
樹里は写真の中の学生たちを見つめた。彼らの目には、確かに何かに憑かれたような光があった。それは最近の自分の目と同じではないだろうか。
「教授……これらの学生たちに共通していることは?」
「深夜の練習です」佐々木教授は静かに答えた。「皆、夜中に一人で練習室にこもっていました。そして、誰かに教わったと言うのです」
樹里の血の気が引いた。
「誰かに?」
「でも、その誰かは実在しない人物でした。死んだ音楽家の名前だったり、この世にいるはずのない人だったり……」
教授の視線が鋭くなった。
「桜井さん、あなたも夜の練習室で、誰かに会いませんでしたか?」
樹里は答えに窮した。エドワードと静香のことを話すべきか、それとも隠し通すべきか。教授の目は、すでに真実を見抜いているようだった。
「あの建物には、古い魂が宿っています」教授は続けた。「音楽に人生を捧げ、この世に強い執着を残したまま亡くなった人々の魂が。彼らは音楽への愛ゆえに、まだこの世に留まっているのです」
「でも……彼らは悪い人たちではありません」
樹里は思わず口にしていた。教授は悲しそうに微笑む。
「そうでしょうね。彼らに悪意はないのです。ただ、あまりにも音楽を愛しているだけ。しかし、それゆえに危険なのです」
教授は椅子に座り直し、樹里に向き合った。
「死者と生者では、時間の流れが違います。彼らにとって数時間の練習も、生きている私たちの体には過酷すぎる。彼らの基準で練習を続けていれば、必ず体が壊れます」
樹里は自分の包帯を巻いた指を見つめた。確かに、エドワードの要求する練習量は人間の限界を超えている。
「それに、彼らの音楽への執念は純粋すぎるのです。生きている私たちには、音楽以外にも大切なものがある。友情、恋愛、家族……しかし彼らは、そうした人間らしい感情を忘れてしまっています」
修平の心配そうな顔が脳裏に浮かんだ。最近の自分は、彼の気持ちを理解しようとしていただろうか。
「桜井さん、お願いです」教授の声は切迫していた。「夜の練習室には近づかないでください。あなたは才能のある学生です。正しい指導の下で学べば、必ず素晴らしい音楽家になれる。死者たちの執念に巻き込まれる必要はないのです」
樹里は混乱していた。エドワードと静香への愛情と、教授の警告の間で心が揺れる。
「でも……彼らは私を信頼してくれています。私がいなければ、彼らはずっと苦しみ続けることになるのでは?」
教授は首を振った。
「それは錯覚です。これまでも多くの学生が同じことを言いました。自分だけが彼らを救えると信じ込んでしまうのです。しかし結果は……」
教授は写真を指した。悲劇的な末路を遂げた学生たちの姿が、樹里を見つめている。
「彼らは救われることはありません。なぜなら、彼ら自身が救われることを望んでいないからです。音楽への執念こそが、彼らの存在理由なのですから」
夕陽が研究室の窓から差し込み、古い楽譜を照らしている。樹里は立ち上がった。
「考えてみます」
「桜井さん」
扉に向かう樹里を、教授が呼び止めた。
「もし何かあったら、いつでも相談してください。一人で抱え込まないで」
樹里は振り返って頷いた。しかし心の奥では、エドワードと静香を裏切ることはできないという思いが強くなっていた。研究室を出ると、廊下の向こうに夕闇が迫っている。
今夜も、彼らが待っているだろう。樹里は足を速めた。教授の警告が頭の中で響いているが、それでも練習室へと向かう足は止まらなかった。