教授の警告が脳裏を離れないまま、樹里は夜の校舎へと足を向けていた。月光が古い石造りの廊下を銀色に染め、どこからか微かにピアノの音が聞こえてくる。きっとエドワードが今夜も練習を続けているのだろう。

 彼らを裏切ることはできない。教授の言葉がどれほど的確でも、樹里にはもう引き返せない道があった。エドワードの未完の曲への執着も、静香の創作への渇望も、同じ音楽を愛する者として理解できるのだ。たとえそれが死者の魂であったとしても。

 三階の練習室前に立つと、予想通りピアノの旋律が聞こえてきた。いつものようにドアノブに手をかけようとした時、樹里の動きが止まった。聞こえてくるのはピアノの音だけではない。ヴァイオリンの高く澄んだ音色が、ピアノの旋律に絡みつくように響いている。

 心臓が早鐘を打った。エドワードと静香以外に、まだ霊がいるというのだろうか。恐る恐るドアを開けると、見慣れた練習室に三つの人影があった。

 ピアノの前に座るエドワードと、その傍らに立つ静香。そして窓際に、小柄な少年が立っていた。

 少年は十二、三歳ほどに見える。短く刈り込まれた黒髪と、大きな黒い瞳。手にしたヴァイオリンは彼の華奢な体に対して大きすぎるほどだったが、その演奏は息を呑むほど美しかった。だが同時に、樹里の背筋に冷たいものが走る。

 少年の周りだけ、空気が歪んで見えるのだ。まるで熱せられた鉄のように、現実と幻想の境界が曖昧になっている。

「あ」

 樹里の小さな声に、三人の霊が振り返った。エドワードは相変わらず高慢な表情だったが、静香の顔には困惑の色が浮かんでいる。そして少年は──樹里を見つめる瞳に、狂気じみた光を宿していた。

「やっと来たのね」静香が安堵したような声で言った。「樹里さん、紹介するわ。こちらは──」

「僕はリョウ」少年が静香の言葉を遮った。声は澄んでいるのに、どこか不自然な響きがある。「君が樹里ちゃん?僕のこと、聞いてくれる?」

 樹里は頷きかけて、はっとした。少年の足元に影がない。エドワードと静香にも影はなかったが、彼らからは生前の人格の名残を感じ取ることができた。だがこの少年からは、まったく違う何かが滲み出ている。

「リョウは戦後すぐの頃の子よ」静香が説明を続けた。「天才的なヴァイオリニストだったけれど、若くして──」

「病気で死んだんだ」リョウが再び静香の言葉を遮る。その口元に浮かんだ笑みは、年齢に不釣り合いなほど冷たかった。「でも僕は諦めてない。まだ演奏し足りない。まだまだ、ずっと演奏していたいんだ」

 ヴァイオリンの弦が軋むような音を立てた。リョウの指が弦を押さえる力が強すぎるのだ。

「リョウ君」樹里は慎重に声をかけた。「あなたは、どんな曲を演奏したいの?」

「全部」即座に答えが返ってきた。「この世のすべての曲を演奏したい。パガニーニもブラームスもチャイコフスキーも、全部全部僕のものにしたいんだ」

 その時、樹里は気づいた。リョウの指先から、かすかに血のようなものが滲んでいる。まるで弦が食い込んでいるかのように。

「でもね」リョウは楽器を構え直した。「僕一人じゃ限界があるの。だから仲間が欲しいんだ。一緒に演奏してくれる人が」

 弓が弦に触れた瞬間、練習室全体が震えた。音というより、魂を直接揺さぶる振動が空間を満たす。樹里は思わず壁に手をついた。

 エドワードが眉をひそめた。「少年よ、君の演奏は度を越している。我々とは──」

「度を越してる?」リョウの笑い声が響いた。「エドワードさん、あなただって完璧主義でしょう?静香さんだって、社会の偏見と戦いながら作曲を続けたんでしょう?僕たちは同じなのよ」

「同じ...ではない」静香が困惑したように呟いた。「確かに私たちは音楽への執着で現世に留まっているけれど、あなたは──」

「何が違うって言うの?」リョウの瞳が一瞬、真っ黒に見えた。「みんな死んでもなお音楽を愛してる。みんな現世に執着してる。同じじゃない」

 樹里は震える手でドアノブを握った。この少年霊は、エドワードや静香とは根本的に何かが違う。二人からは確かに強い執着を感じるが、それでもどこかに生前の人間性が残っている。だがリョウからは、人間だった頃の温もりがまったく感じられない。

「樹里ちゃん」リョウが振り返った。「君も僕たちの仲間になってよ。君なら僕たちの気持ちが分かるでしょう?」

「仲間って...どういう意味?」

「簡単なこと」リョウは再びヴァイオリンを構えた。「君も僕たちと同じになればいいの。そうすれば永遠に音楽を演奏できる。時間を気にすることも、疲れることも、年を取ることもない」

 樹里の血の気が引いた。同じになるということは、つまり──

「死ねと言うのか」エドワードが立ち上がった。「少年よ、それは我々の求めることではない」

「そうよ、リョウ」静香も同調した。「私たちは樹里さんに害をなすつもりはないわ」

「害?」リョウが首を傾げた。その仕草は子供らしいのに、表情は恐ろしく冷酷だった。「これは愛情よ。音楽への愛を分かち合いたいだけ」

 弓が再び弦に触れる。今度の音は先ほどより遥かに強烈で、樹里の頭の中で何かがぐらりと揺れた。意識が朦朧とし、足元がふらつく。

「やめろ!」エドワードがピアノの蓋を激しく閉じた。その音でリョウの演奏が止まり、樹里は我に返った。

「エドワードさん、邪魔しないで」リョウの声に初めて苛立ちの色が混じった。「僕はただ、樹里ちゃんに本当の音楽の世界を教えてあげようとしているだけなのに」

「君のそれは音楽ではない」エドワードが断言した。「魂を蝕む何か別のものだ」

 リョウの表情が一変した。子供らしい無邪気さが完全に消え、底知れない怒りが瞳に宿る。

「別のもの?僕の音楽が偽物だと言うの?」

 空気が重くなった。練習室の温度が急激に下がり、樹里の息が白くなる。窓ガラスに霜が張り始めた。

「僕は」リョウが低い声で続けた。「十二歳で死んだ。まだ何も成し遂げていない。まだ演奏したい曲が山ほどあった。なのに病気が僕から全てを奪った」

 ヴァイオリンを握る手が震えている。いや、震えているのではない。怒りで強張っているのだ。

「だから僕は死んでも諦めなかった。この世に留まって、いつか必ず全ての曲を演奏してみせると誓ったんだ。それの何が間違ってる?」

 樹里は後ずさりした。リョウの周りの空気の歪みが激しくなり、まるで現実そのものが壊れそうになっている。

「間違ってはいない」静香が優しく言った。「でも、だからといって生きている人を巻き込むのは──」

「巻き込む?」リョウが笑った。「樹里ちゃんは自分の意志でここに来てるじゃない。僕たちと同じで、普通の学生生活では満足できないから。違う?」

 樹里は答えられなかった。確かに自分は普通の練習では物足りなさを感じ、夜の練習室に通うようになった。だが、それは死を望んでのことではない。

「答えられないでしょう?」リョウが一歩近づいた。「心の奥で分かってるのよ。君も僕たちと同じ。だから引かれ合ったんだ」

「違う」樹里は必死に首を振った。「私は、ただあなたたちの音楽が美しいと思っただけ。死にたいなんて思ってない」

「今はね」リョウの笑みが不気味に広がった。「でもいずれ分かる。生きているうちは、どんなに頑張っても限界がある。時間も体力も技術も、全てに制約がある。でも死んでしまえば──」

「それ以上言うな」エドワードが低い声で制した。「我々は確かに死者だが、生者に死を勧めるような存在ではない」

 リョウがエドワードを睨んだ。二人の視線がぶつかり合い、空気がさらに重くなる。

「そう」リョウが呟いた。「そういうことなら、僕は一人でやるまでよ」

 突然、リョウの姿が薄くなった。透明になりかけた体が、ゆらゆらと揺れている。

「待って」樹里が思わず声をかけた。「リョウ君、どこへ──」

「心配しないで、樹里ちゃん」消えかけた少年が振り返った。「僕はどこにも行かない。ずっとここにいる。君が心を決めるまで、ずっと」

 最後の言葉と共に、リョウの姿が完全に消えた。後には異様な静寂だけが残る。

 樹里は膝から崩れ落ちそうになった。エドワードと静香が慌てて近づいてくる。

「大丈夫か」エドワードが珍しく心配そうな声で尋ねた。

「ええ、なんとか」樹里は震え声で答えた。「でも、彼は──」

「危険な存在よ」静香が断言した。「私たちとは違う。あの子は死そのものに取り憑かれている」

 樹里は窓の方を見た。リョウが消えた場所の空気は、まだ微かに歪んでいる。そしてその歪みの中に、かすかにヴァイオリンの音が聞こえるような気がした。

 彼はまだそこにいる。見えないだけで、確実にそこにいるのだ。

 樹里の心に、これまで感じたことのない恐怖が芽生えた。エドワードや静香は確かに霊だが、彼らからは生前の人格や理性を感じ取ることができた。だがリョウは違う。あの少年からは、死への異常な憧憬しか感じられない。

 そして何より恐ろしいのは、リョウの言葉に一理あることだった。確かに樹里は普通の学生生活では満足できず、より深い音楽体験を求めて夜の練習室に足を向けた。その意味では、彼らと同じ道を歩み始めているのかもしれない。

 だが、だからといって死を選ぶつもりはない。絶対に。

 樹里は拳を握りしめた。リョウがどんな言葉で誘惑してきても、決して屈服するものかと心に誓った。

 だが、窓の外から聞こえてくる微かなヴァイオリンの音色が、彼女の決意を嘲笑うかのように響き続けていた。

夜想曲と紡がれた亡霊

14

新たな霊の出現

月村 奏子

2026-04-03

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第14話 新たな霊の出現 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版