翌夜、樹里は約束の時刻よりも早く音楽棟へ向かった。昨夜の出来事が夢ではなかったことを確かめたい気持ちと、エドワード・グレイという謎めいた霊への好奇心が胸の内で渦巻いていた。
練習室D-12の扉を開けると、室内は静寂に包まれている。グランドピアノの蓋が開いており、鍵盤に月光が細く差し込んでいた。樹里はピアノの前に座り、軽く指を動かしてみる。昨夜聞いたあの美しくも切ない旋律が頭の中で響いていた。
「君は約束を守ったのだね」
低く響く声に振り返ると、エドワードが窓際に佇んでいた。昨夜と同じ黒いタキシードに身を包み、月光を浴びてより一層幽玄な美しさを纏っている。
「もちろんです。あなたの音楽を聞かせていただけるなんて、光栄ですから」
樹里の言葉に、エドワードの唇が僅かに上がった。だが、その笑みには温かみよりも、どこか冷たい優越感が宿っているように見える。
「では、まず君の実力を確かめさせてもらおう。私の作品を演奏するのに相応しい技術があるかどうかをね」
エドワードは優雅な足取りでピアノに近づき、鍵盤の上に透明感のある指を置いた。瞬間、練習室に美しい旋律が響く。昨夜聞いた夜想曲の冒頭部分だった。その技術は確かに超人的で、樹里は息を呑んだ。
「これが私の『夜想曲第21番ハ短調』の序奏だ。シンプルに見えて、実は非常に高度な技術を要求される。君にできるかな?」
エドワードの挑戦的な視線を受けて、樹里は頷いた。彼女は集中し、記憶に刻まれた旋律を再現しようとした。指が鍵盤を捉え、音が空気を震わせる。
しかし、数小節も弾かないうちに、エドワードが「止めたまえ」と冷たく言い放った。
「何という下手くそな演奏だ。音の粒は揃わず、表現は浅薄、そして最も致命的なのは、音楽への理解が皆無だということだ」
エドワードの言葉は樹里の心を鋭い刃のように切り裂いた。彼女は音楽大学でも優秀な成績を収めており、教授からも将来を期待されている学生だった。それがこうも酷評されるとは思ってもみなかった。
「もう一度、やらせてください」
樹里は歯を食いしばりながら言った。しかし、エドワードは首を横に振る。
「無駄だ。君のような凡庸な才能では、私の音楽は理解できない。第一、その程度の技術で音楽家を名乗ろうなど、片腹痛い」
エドワードは樹里を見下すような表情を浮かべながら続けた。
「私は十歳でモーツァルトの協奏曲を完璧に演奏し、十五歳で自作の協奏曲をウィーンで初演した。二十歳の時には、リストですら私の技術を賞賛したのだ。君など、私の足元にも及ばない」
その傲慢な物言いに、樹里の内側で怒りが燃え上がった。確かに彼の演奏は素晴らしく、自分が及ばないことは理解している。しかし、だからといってここまで侮辱される理由はない。
「あなたは確かに天才かもしれません。でも、そんな風に人を見下すのは間違っています」
樹里の反発に、エドワードの目が冷たく光った。
「見下す?これは事実を述べているに過ぎない。音楽の世界は残酷だ。才能のない者は淘汰される。それが自然の摂理だ」
彼は窓際へと歩を進めながら振り返る。
「私は百年以上をかけて、この夜想曲を完成させようとしている。なぜだと思う?それは、私の音楽が完璧でなければならないからだ。妥協は許されない。凡庸さは罪悪なのだ」
エドワードの声には、音楽への異常なまでの執着と、それと表裏一体の孤独感が滲んでいた。樹里は彼の言葉に込められた深い苦悩を感じ取ったが、同時にその傲慢さにも憤りを覚えずにはいられなかった。
「でも、音楽は人を傷つけるためのものではないはずです」
「甘い。音楽は戦いだ。自分自身との、他者との、そして時間との戦いだ。弱者に居場所はない」
エドワードは再びピアノに向かい、今度はより複雑な楽句を奏で始めた。その技術は確かに超絶的で、樹里は自分との圧倒的な差を思い知らされる。指の動きは機械のように正確でありながら、同時に人間的な感情の深みを持っていた。
「これが第二楽章の一部だ。君にはこの美しさも理解できまい」
悔しさで胸が締め付けられる中、樹里は必死に彼の演奏を記憶に刻もうとした。確かに自分は未熟だ。しかし、それでも音楽への愛は本物だと信じている。
「私はあなたほど上手く弾けないかもしれません。でも、音楽を愛する気持ちでは負けていません」
樹里の言葉に、エドワードの手が止まった。彼は振り返り、興味深そうに彼女を見つめる。
「愛だと?愛だけで音楽ができると思っているのか?」
「愛がなければ、どんなに技術があっても音楽は魂を持ちません」
「幼稚な理想論だ。現実はそんなに甘くない」
エドワードの表情が一瞬、何かを懐かしむように柔らかくなったが、すぐに元の冷たさを取り戻した。
「だが、君の覚悟だけは認めよう。明日もここに来るがいい。私の音楽の真髄を教えてやる。ただし、私の指導は厳格だ。泣いても許さんぞ」
そう言い残すと、エドワードの姿は徐々に薄れ、やがて完全に消え去った。残されたのは、月光に照らされた静寂の練習室だけだった。
樹里は一人になっても、しばらくピアノの前に座り続けた。胸の内には屈辱と怒り、そして奇妙な期待感が入り混じっている。エドワードの傲慢さは許し難いものだったが、同時に彼の音楽への純粋な情熱も感じ取っていた。
翌日の夜、再びこの部屋で彼と向き合うことになる。それがどんなに過酷な体験になろうとも、樹里は逃げるつもりはなかった。彼の音楽の奥に隠された真実を、きっと見つけ出してみせる。
月が雲に隠れ、練習室は深い闇に包まれた。しかし樹里の心の中では、小さな炎が静かに燃え続けていた。