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夜想曲と紡がれた亡霊

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初めての邂逅

月村 奏子 | 2026-03-24

深夜の音楽棟に響く不可解な旋律が、再び樹里の耳を捉えた。昨夜と同じ、どこか懐かしくも切ない調べ。隣に立つ修平の顔が青ざめているのを見て、樹里は安堵と同時に新たな不安を感じた。自分だけが聞いているのではない。それは確かに存在しているのだ。

「樹里、これは……」

 修平の声が震えている。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかない動揺ぶりだった。

「聞こえるのね。昨日私が体験したのは、これよ」

 樹里は修平の腕に手を添えた。彼の体が小刻みに震えているのが伝わってくる。

 音楽は3階の奥の練習室から聞こえてくるようだった。ショパンの夜想曲第2番変ホ長調。しかし、楽譜通りの演奏ではない。どこか独特の解釈が施され、通常よりもテンポが遅く、一音一音に深い哀愁が込められている。

「行ってみましょう」

 樹里が歩き出そうとすると、修平が慌てて腕を掴んだ。

「待てよ。危険かもしれない」

「でも、このまま逃げていても何も解決しないわ。それに……」

 樹里は立ち止まり、修平を見つめた。

「この音楽には、何かを訴えかけるものがある。苦しみや悲しみじゃなくて、もっと深い何かが」

 修平の手を振り払い、樹里は階段を上がり始めた。足音を立てないよう注意深く歩を進める。修平も仕方なく後に続いた。

 3階に上がると、音楽はより鮮明に聞こえてきた。305号室。樹里がいつも使っている練習室だった。扉の隙間からは、かすかに光が漏れている。

 樹里は扉に手をかけた。冷たい金属の感触が指先に伝わる。心臓が激しく鼓動を打っていた。

「樹里……」

 修平の制止の声を振り切って、樹里は扉を静かに押し開けた。

 室内は薄暗く、月光だけが窓から差し込んでいる。しかし確かにピアノの音は響いていた。グランドピアノの前には、青白く光る人影が座っている。

 樹里は息を呑んだ。

 そこには、19世紀の正装に身を包んだ男性が座っていた。燕尾服を着込み、完璧に整えられた金髪。顔立ちは彫刻のように美しく整っているが、その表情は氷のように冷たい。そして何より、その姿は半透明だった。

 男性は演奏を続けながら、ゆっくりと顔を上げた。翡翠色の瞳が樹里を見つめる。その視線に込められているのは、軽蔑と高慢さだった。

「ふん。また無礼な闖入者か」

 男性の声は低く、イギリス訛りの英語だった。しかし不思議なことに、樹里にはその意味が理解できた。

「あなたは……」

「エドワード・グレイ。その名前すら知らぬほど無知な者に、私の音楽を聞く資格があるとでも?」

 エドワードと名乗った霊は、演奏を止めることなく話し続けた。指先から紡がれる音色は、彼の冷たい言葉とは対照的に美しく繊細だった。

 樹里は恐怖で身体が硬直するのを感じながらも、その演奏に魅了されていた。技術的な完璧さもさることながら、音の一つ一つに込められた情念の深さが圧倒的だった。

「私は樹里、桜井樹里です。音楽を愛する者として、あなたの演奏を聞かせていただきたい」

 樹里の言葉に、エドワードの指が一瞬止まった。翡翠の瞳に僅かな興味の色が浮かぶ。

「愛する、だと?音楽大学生程度の小娘が、音楽を愛するなどと軽々しく口にするな」

「でも、私は本当に——」

「黙れ」

 エドワードの声が鋭く響いた。室内の温度が急激に下がったような気がした。

「真の愛とは何かも知らぬ者が、愛を語るなど笑止千万。お前のような凡人に、音楽の神髄など理解できるはずもない」

 その時、樹里の後ろから修平の声がした。

「樹里、これはただの幻覚だ。疲れているんだよ」

 しかし樹里には、エドワードの存在がありありと感じられた。彼の纏う悲哀、音楽への執着、そして深い孤独感。それらが波のように樹里の心に押し寄せてくる。

「あなたは、なぜここにいるのですか?」

 樹里の問いに、エドワードは嘲笑を浮かべた。

「なぜ、だと?愚問だな。私には完成させねばならない作品がある。死などという些細な事情で、それを諦めるわけにはいかぬ」

 エドワードの指が再び鍵盤を踊り始めた。今度は樹里の知らない曲だった。メロディーラインは美しいが、どこか未完成な印象を受ける。

「これは……」

「私の夜想曲だ。しかし未だ完成には至っていない。百年以上もの間、私はこの一曲のために存在し続けている」

 エドワードの表情に、一瞬だけ苦悩の影が走った。しかしすぐに元の冷たい仮面を被り直す。

「お前のような凡庸な才能では理解できまい。去れ」

 樹里は首を振った。

「いえ、私は理解したいのです。あなたの音楽を、そしてあなた自身を」

「理解?」エドワードが失笑を漏らした。「お前に私の何が理解できるというのだ。私は天才と呼ばれた男だ。神に愛された特別な存在なのだ」

「でも、あなたは独りぼっちです」

 樹里の言葉に、エドワードの演奏が止まった。室内が静寂に包まれる。

「何だと?」

「あなたの音楽からは、深い孤独感が伝わってきます。天才だからこそ、誰にも理解されない寂しさがある」

 エドワードの翡翠の瞳が、樹里を鋭く見据えた。その視線には怒りと困惑が混じっている。

「生意気な小娘め。私に説教をしようというのか」

 エドワードが立ち上がった。青白い光を纏った姿は幻想的だが、その威圧感は圧倒的だった。樹里は本能的に一歩後退する。

「私は孤独など感じたことはない。音楽があれば、それで十分なのだ」

 しかし、その言葉とは裏腹に、エドワードの表情には深い陰りがあった。樹里には、彼の心の奥底に潜む痛みが感じ取れた。

「あなたは嘘をついています」

「何だと?」

「本当は誰かに認められたかった。理解されたかった。でも高すぎるプライドが、それを許さなかった」

 エドワードの顔が歪んだ。怒りなのか、それとも別の感情なのか判然としない。

「黙れ、黙れと言っている!」

 突然、室内に冷たい風が吹き荒れた。楽譜が舞い上がり、椅子が倒れる。樹里は修平に支えられながら、それでもエドワードから目を離さなかった。

「私はあなたを理解したい。そして、あなたの音楽を完成させる手助けをしたい」

 樹里の言葉に、風がぴたりと止んだ。エドワードは驚愕の表情で樹里を見つめている。

「手助け、だと?お前ごときが、私に?」

「はい。もしあなたがそれを望むなら」

 しばらくの沈黙が流れた。エドワードは複雑な表情で樹里を見つめ続けている。

「面白い。実に面白い小娘だ」

 エドワードが再びピアノの前に座った。

「では試してみるがいい。だが警告しておく。私の指導は厳しいぞ。覚悟があるなら、明日の夜、再びここに来い」

 エドワードの姿が次第に薄くなっていく。

「待って、まだ聞きたいことが——」

「明日だ」

 エドワードの声と共に、室内から青白い光が消えた。残されたのは月光に照らされた静寂の練習室だけだった。

 樹里は膝から崩れ落ちそうになるのを、修平に支えられた。全身から力が抜けていく。

「樹里、大丈夫か?」

「ええ、でも……信じられる?」

 修平は困惑した表情で頷いた。

「正直、何が起こったのか分からない。でも、確かに何かが存在していた」

 樹里は窓の外を見上げた。夜空に浮かぶ月が、まるで全てを見守っているかのようだった。

 明日の夜、再びエドワードと会うことになる。それがどのような結果をもたらすのか、樹里にも分からなかった。しかし、彼の音楽に込められた魂の叫びを感じた今、後戻りはできないと思った。

第5話 初めての邂逅 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版