硝子が、歌う。
それはアルマ・クロイツが幼い頃から信じていた感覚だった。カガミアのすべての建築物は、光を反射するためではなく、光を*制御する*ために設計されている。壁面を走る無数の透明な板が、太陽の角度に従って微細に傾き、都市全体に均一な輝度をもたらす。影を消す。揺らぎを消す。不安を誘うあの、足元が定まらないような感覚を——消す。
執政官執務室は、カガミア中枢塔の最上階に位置していた。
六面すべてが硝子で覆われた球体状の空間。床も天井も壁も、すべて透明だった。ただ一点、執務机と椅子だけが白い磁器のように不透明な素材で造られており、それがアルマの座る場所を、この宇宙の中心点として際立たせていた。
彼女は今、都市を見下ろしていた。
眼下には碁盤目状に区画された居住ブロック、その間を縫う光の通路、蠕動する人の群れ。一人一人の胸には感情チップが埋め込まれ、その微細な電気信号がリアルタイムで中枢管理システムへ送られている。アルマはいつでも、その数値の海を泳ぐことができた。今この瞬間、第七ブロックの市民A-04-2271は不安指数が許容値上限付近にある。第三ブロックのB-11-0088は愛着感情が規定値を超えそうだ。
だが彼女は、それらの数値を一つ一つ確認するようなことはしない。
庭師は、花を一輪ずつ数えない。庭全体が美しく整っているかどうかを、ただ感じ取る。
アルマは静かに目を閉じた。
*
人が泣く姿を、初めて見たのはいくつの頃だったろうか。
母親だった。カガミア草創期の混乱の中で、感情管理システムの初期バグにより、チップが誤作動を起こした。母は三日三晩、理由のわからない悲しみに泣き続けた。食事も取れず、言葉も発せられず、ただ泣いた。あの目——何も映さず、ただ液体だけを流し続ける目を、幼いアルマは恐怖と共に見つめていた。
あれが感情だった。
管理されていない、生の感情。それは人間を獣以下に貶める。尊厳も思考も奪い、肉の殻だけを残す。母はその後、チップの修正処置を受け、穏やかな笑顔を取り戻した。だが幼いアルマの目には、それが「回復」ではなく「解放」に見えた。
感情という檻から、解き放たれた。
私は人類に強さを与えた——アルマは今でも、そう信じている。
感情を制御することは、感情を消すことではない。誤解している者が多いが、それは違う。感情は今もカガミアの市民の中に存在する。ただ、適切な範囲内で、適切な形で、適切なタイミングで機能するように調整されているだけだ。嵐を制御して水力発電に変えるように。火を制御して熱源に変えるように。感情もまた、制御されることで初めて人間の役に立つ。
では制御されていない感情は何か。
それは単なる損壊だ。機械のノイズ。システムの誤差。
*
扉が開く音がした。
副官のセリュウが入室してきた。三十代半ば、端正な顔立ちに標準仕様の感情仮面——穏やかな中立を表すB型——を着けた男だった。
「執政官閣下。第四監察部からの報告が参りました」
「読み上げよ」
アルマは窓から視線を外さないまま言った。
「はい。廃棄仮面の不正横流しに関する件です。先週、廃管理区画において複数の廃棄仮面が市場外流通していることが確認されました。数量は現時点で特定できておりませんが、感情データが不完全消去のまま外部に漏出している可能性があります。また、関与者については——」
「数は」
「現在把握しているのは、工場内部の関与者が最低二名、外部の受け取り側が一名以上と推定されます。ただし廃管理区画での接触があったとされる人物については、まだ特定が——」
「廃管理区画」
アルマは初めてセリュウに顔を向けた。
その表情には何もなかった。怒りも、驚きも、焦りも。ただ、硝子のように透明な静けさがあった。
「興味深い。あの場所を使う知恵が残っていたとは」
「閣下?」
「続けよ」
「関与者の一人は仮面工場の工員と見られています。感情チップの数値記録に軽微な異常が複数回検出されており、精密検査の対象に該当します。なお、廃管理区画内での痕跡から、複数人の集合があったことも確認されております。組織的な動きの可能性も——」
「処理せよ」
アルマは再び窓の外に目を向けた。
その二文字は、感情の重みを一切持っていなかった。処理、という言葉が、庭の枯れ葉を摘む程度の軽さで空間に溶けた。
「……工員については、精密検査の後に」
「工員だけではない」
アルマは言った。
「廃管理区画に集まった者全員。接触した可能性のある者も含め、リストアップせよ。感情データの洗浄が必要なレベルにある者は、施設Gへ移送する。廃棄仮面の流出ルートを完全に遮断し、不完全消去データが外部で何らかの影響を与えていないか調査せよ。七十二時間以内に中間報告を」
「……了解いたしました」
「もう一つ」
セリュウが退室しかけた足を止める。
「工員の件だが」
アルマは少し間を置いた。都市の光が硝子の床に乱反射し、彼女の足元で無数の虹が砕けていた。
「精密検査の前に、行動パターンの記録を十日分遡って私に送れ。チップの異常数値を含めて」
「は、それは……通常手順では、感情管理省を通じて——」
「私が直接見る」
それだけだった。セリュウはそれ以上何も言わず、一礼して退室した。
*
静寂が戻った。
アルマは目を細め、眼下の都市を眺め続けた。
一人の名も知らぬ工員。感情チップに異常を持つ、おそらくは若い人間。廃管理区画という、カガミアの記憶が眠る場所に足を踏み入れた誰か。
珍しくはない。百年の歴史の中で、こうした逸脱者は数えきれないほど現れては消えた。システムは常に完璧ではない。ゆえに庭師には、常に仕事がある。
だが。
アルマの指先が、执务机の縁をゆっくりとなぞった。
廃管理区画には、通常の市民が知り得ない情報がある。感情廃止計画の残滓。初期実験の記録。そして——零、と呼ばれる都市伝説の痕跡。
その名を思うとき、アルマの胸の奥で、何か微細なものが動いた。
それが何の感情であるかを、彼女は分析しない。自分自身のチップ記録を確認することを、アルマは長年の習慣として避けていた。自分の感情を数値で知ることは、己が制御しているつもりの檻の外側を見るような行為だった。
恐れているわけではない。
ただ、不要だ。
庭師は自分の手の震えを気にしない。庭が整っていれば、それで十分だ。
アルマは立ち上がり、硝子の床に足を踏み出した。
都市の光が彼女の輪郭を砕き、百の影に分解した。壁面の反射がその影を複製し、複製し、またさらに複製する。どこまでも続くアルマの残像が、六面の硝子の中で無限に増殖する。
彼女は自分の無数の姿を見渡し、静かに言った。
「強くあれ」
誰に言っているのかは、自分でもわからなかった。
*
その夜、感情管理省の内部端末に、一件の精密検査指令が送られた。
対象者コード:白瀬 透、工員番号KG-07-4419。
指令の末尾には、異例にも執政官直轄の識別符号が付されていた。
執政官が直接関与する案件は、通常の手続きを経ない。施設Gへの移送が最終目標であれば、対象者に知らせは届かない。ただある朝、出勤した工員の席が空になり、同僚たちは誰もそのことを、不思議に思わない。
感情チップがそう命じるから。
だが今夜、感情管理省の中に、その指令を見て静かに息を呑んだ男がいた。
漣 庸介は、手書きの記録帳を膝の上で開き、震える文字でただ一言書き付けた。
——時間がない。