報告書は、十四行で完結した。
漣庸介はその薄い紙束を机の上に置き、三度読み返した。一度目は内容の確認のため。二度目は矛盾がないかの点検のため。そして三度目は、自分がいったい何をしたのかを、言葉という形で腹の底に沈めるためだった。
白瀬透、工員番号四四七九。追跡対象としての調査結果:異常行動の証拠なし。感情値の逸脱は一時的なノイズの範囲内と判断。監視継続の必要性、なし。
すべて嘘だった。
感情管理省の執務室は、夜になっても硝子の外壁が都市の乱反射を吸い込み続け、奇妙なほど明るかった。カガミアに暗闇は存在しない。光源のない時間帯にも、ドームに仕組まれた散光装置が薄白い疑似夜を作り出す。本物の夜を知らない世代が、もう三代続いていた。漣はその最初の世代に属していた。それでも彼は、暗闇というものを知っていた。もっとも深い暗闇は、光の中にあると知っていた。
「庸介、提出はもう済んだか」
廊下から声がした。上司の品田だった。五十を過ぎた小柄な男で、仮面は常に「穏健・協調型」を着用している。二十年間一度もそれを外したところを見たことがない。あるいはもう外し方を忘れたのかもしれない、と漣はふと思った。
「済みました」と漣は答えた。「問題なしの判断です」
「そうか」品田は廊下に立ったまま、室内を見渡した。「あのハルという工員の件で、工場区の管理係から問い合わせが来ている。連行した理由の開示を求めているそうだ」
「連行の根拠は感情値の急上昇ですか」
「そうだ。だが上昇値が基準の一・三倍程度でな。少し強引だったかもしれん」品田は肩をすくめた。その仕草がひどく無機質に見えた。「まあ、見せしめには使える。工場区への牽制だ」
漣は何も言わなかった。二十年間、そうしてきたように。
品田が去ってから、漣は机の引き出しを開けた。最下段の、施錠された小さな仕切りの中に、それはあった。一冊の古い手帳。紙でできた、データ端末に接続されない、どこにも記録されない、漣だけの帳面。
二十年分の記録がそこにある。小さな字で、びっしりと。日付と、出来事と、数字と、稀に一言だけ感想が挟まれていた。それが漣の抵抗の全てだった。記録すること。証拠を残すこと。いつか誰かが読むかもしれない、という細い可能性に賭けること。それ以上でも、それ以下でもなかった。
だが今日、漣は初めて、記録以外のことをした。
手帳を開いて、本日の日付を書いた。それから少し迷って、こう続けた。
〈白瀬透の調査報告を改ざんした。嘘の報告書を提出した〉
ペンを持つ指先が、かすかに震えていた。
震えの正体が、最初は分からなかった。恐怖だと思った。二十年間、積み上げた安全な距離が一夜で崩れた恐怖。だがそれだけではなかった。震えはむしろ、何か別のものを含んでいた。熱のような、痛みに似た、けれど痛みとは違う何か。
漣は手帳を閉じ、引き出しに戻した。
帰り支度をしながら、彼は昨日の夜を思い返した。執行官が透の後をつけているという情報を入手した時、漣の中で二十年間眠っていた何かが、音を立てて目を覚ました。記録するだけでいいはずだった。記録して、手帳に書いて、それで終わりにするはずだった。
なのに漣は、執行官の担当者に内部回線で接触し、「別案件で至急呼び戻せ」という偽の指示を流した。そして翌朝、透に関する調査書類の一部を書き換えた。
二十年間で初めてのことだった。
なぜそうしたのか、と問われれば答えに詰まる。白瀬透という青年に特別な義理があるわけではない。鏡花にも。ただ、ハルが連行されたと知った時、品田が「牽制に使える」と笑った声を聞いた時、何かが漣の中で取り返しのつかない角度に折れた。折れたのではなく、折っていたものがなくなった、という方が正確かもしれない。
省庁の廊下を歩きながら、漣は同僚たちの仮面を眺めた。「誠実・有能型」、「温和・服従型」、「快活・協調型」。みんなきれいに磨かれた仮面をつけて、おはようとおやすみのあいだを歩き続けている。自分もそうだと思っていた。内側に手帳を隠しているだけで、外側は彼らと同じだと。
違った、と今更気がついた。
外に出ると、散光装置の薄白い光が降り注いでいた。硝子の建物が幾重にも反射して、漣の影は四方に伸びた。どれが本物の影か分からない場所で、二十年生きてきた。
帰宅して、漣は狭い洗面所に立った。
鏡がそこにある。カガミア市民の家には必ず鏡がある。政府の規定だ。仮面の装着状態を確認するため、と説明されている。本当の理由を、漣は知っていた。自分の素顔を鏡でしか見られない場所に閉じ込めておくためだ。仮面をつけた自分が「本当の自分」になるよう、時間をかけて慣らすためだ。
漣は仮面を外した。
五十一歳の男の顔がそこにあった。目尻の深い皺。少し垂れた眦。白髪まじりの短い髪。二十年間、記録だけをつけ続けた男の顔。
「ようやく俺も」
声に出してみると、奇妙なほど静かな音がした。洗面所の硝子タイルが音を吸い込んで、そのまま散らした。
「ようやく俺も、本物の人間らしいことをした」
言い終えて、しばらく動けなかった。
罪悪感がないとは言えない。二十年間守ってきた規則を破ったという感覚は確かにある。もし発覚すれば、漣は終わる。記録した手帳も、二十年分の証拠も、全て無意味になる。そんな危うい橋を、なぜ渡った。
だがそれよりも深いところに、別の感情があった。
罪悪感ではなかった。恐怖でもなかった。
それは奇妙な、静かな、解放に似た何かだった。
傍観者は楽だ、と漣は思った。記録する者は汚れない。距離を置く者は傷つかない。二十年間そうして生きてきた。それが賢さだと信じていた。時が来れば証拠を渡せる誰かが現れると、根拠のない希望を持ち続けることで、自分の不作為を正当化してきた。
白瀬透は、二十一歳の青年だ。漣の知る限り、まだ誰も渡り切ったことのない橋を、今まさに渡ろうとしている。ハルという工員は今夜、どこかの施設で感情矯正を受けているかもしれない。鏡花という女は、名前すら偽物かもしれない存在として、暗がりの中で仮面を削り続けている。
漣は彼らの代わりに記録をつけてきた。
だが記録は、誰かの痛みを止めない。
鏡の中の自分と、長い間見つめ合った。仮面のない顔は、思ったより知らない顔をしていた。二十年間仮面に隠されていた場所に、感情の痕跡が刻まれているのが分かった。怒りと悲しみと、押し殺し続けた渇望の跡が。
手帳を取り出した。今日の記録の末尾に、もう一行加えた。
〈これからは、記録するだけでなく、動く〉
書き終えて、漣は手帳をそっと胸ポケットに戻した。
翌朝、漣の端末に一件のメッセージが届いていた。差出人の識別番号は存在しないはずのものだった。内容は三文字だけ。
〈知っている〉
漣は画面を閉じ、窓の外の硝子の都市を見た。どこかで鏡が光を弾いて、一瞬だけ彼の目を刺した。