地下からの帰還は、いつも奇妙な疲労感を伴う。

 透は狭い自室の寝台に横になったまま、天井のガラス板が反射する人工の月光をぼんやりと眺めていた。感情チップが「安静」の数値を基準範囲内に保つよう微調整を続けているのが、首筋の薄い皮膚越しにわずかな熱として感じられる。だが今夜は、その熱がいつもより頼りなく思えた。

 喜び、と透は心の中で繰り返した。

 地下空洞で聴いた音楽の残響がまだ胸の奥に引っかかっている。それはチップが記録した単なる音波の数値ではなく、もっと粘性のある何かだった。礎という老人の皺だらけの手が弦を弾くたびに空気が変容し、仮面を外した人々の顔が一様に柔らかく溶けていく様子が、瞼の裏に繰り返し浮かぶ。七番目の感情の記録を持参せよ、と老人は言った。透が工場で最初に見つけたあの仮面は、まだ鏡花の手元にある。

 翌朝、漣から連絡が入ったのは、始業チャイムが鳴る三十分前のことだった。

---

 三人が落ち合ったのは、廃棄区画の縁に位置する水処理施設の陰だった。稼働を停止した浄水塔が錆びた背骨のように天を刺し、その根元に薄い影が落ちている。漣は到着した時点ですでに汗ばんでいた。額に刻まれた縦皺が、いつも以上に深く見えた。

「昨夜は眠れなかった」と漣は言った。挨拶でも謝罪でもなく、事実の報告として。

 鏡花は無言で腕を組み、今日は白磁のような無表情の仮面をつけていた。感情の読めない顔が逆に緊張を可視化させている。透は二人の顔を交互に見てから、促すように頷いた。

「極秘のアーカイブに、昨夜アクセスした」漣は折り畳んだ薄型端末を取り出し、三人が覗き込める角度に傾けた。「感情管理省の第九局、通称〈鑑〉。存在自体が公式には否定されている部署だ。私はそこに出入りできる認証を、三年かけて手に入れた」

 画面には暗号化を剥がした文書が並んでいた。

 透の目が数行を追ったところで、ある単語に引っかかった。

「感情バンク?」

「正式名称は〈アフェクト・リザーバー〉」漣は静かに答えた。「市民全員の感情チップが収集した記憶と感情の数値データが、逐一送信され蓄積される施設だ。カガミアが建都されて以来の百年分、全市民分のすべてが——生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで——そこに保存されている」

 透は息を止めた。

 自分がこれまで感じてきたもの——薄い喜び、抑圧された怒り、工場の機械油の臭いの中で覚えた名前のない感傷——そのすべてが、どこかの巨大な器に移送されていたということか。人間の感情が、本人の知らぬまま別の場所で保管され続けているという事実は、透に奇妙な空虚感をもたらした。自分の内側にあると思っていたものが、実は「写し」に過ぎなかったような。

「それで」と鏡花が口を開いた。声が低く、平坦だった。「廃止された七つの感情は?」

 漣は頷き、端末を操作した。

「データとして存在している。抹消されたのではなく、隔離されたんだ。かつて百年前に禁止令が出された際、当局は公式には〈感情の蒸発処理〉と発表した。市民はその感情が物理的に消滅したと信じている。だが実際には——」

「アルマが持っている」鏡花が言葉を引き取った。断定の響きに、透は彼女が既にこれを半ば予感していたのだと気づいた。

「そうだ」漣は端末を閉じ、二人を見た。「七つの廃止感情のデータには、アルマの個人認証コードのみがアクセス権限を持つ。感情管理省の長官でさえ参照できない。百年分の市民感情と、七つの禁忌感情が、ただ一人の手の中に収められている」

 沈黙が落ちた。

 浄水塔の錆が風に削られる細い音だけが続く。透は頭の中で情報を整理しようとしたが、その輪郭があまりに巨大すぎて摑み切れない。アルマは慈愛の執政官として市民に崇拝されている。孤児院の子どもたちに仮面を贈り、老人医療施設に光の壁画を寄贈し、福祉演説の際には必ず声を詰まらせてみせる。その人物が、百年分の人間の感情を壺の中に詰め込んで抱えているとしたら——

「なぜ」と透は言った。自分でも驚くほど掠れた声だった。「なぜアルマはそれを溜め込んでいる? 使い道が——」

「まだわかっていない」漣は静かに遮った。「だが、もう一つ判明したことがある」

 漣が端末を再び開き、別のファイルを表示した。透は画面を覗き込んで、ある識別番号に目が止まった。仮面の製造番号だ。工場勤めの自分には、その数列の意味がすぐにわかった。

「これは——」

「君が工場で見つけた仮面の番号だ」漣は言った。「あれは制作ミスでも廃棄品でもない。感情バンクに蓄積されたデータの一部が、物理的な出力形態として漏れ出たものだ。具体的に言えば、廃止感情の一つ——〈渇望〉のデータがチップの形に変換され、仮面に内包された状態で施設外に流出した事故だった」

 透の足元から、冷たいものが這い上がってくる感覚があった。

 つまり、あの仮面を拾った瞬間から、自分はアルマの「所有物」の一片に触れていたということだ。渇望を感じたのは、自分の内側から湧き出たものではなく——百年分積み重なった誰かの渇望が、意図せず自分の皮膚に染み込んだということなのか。

「事故というのは」鏡花が静かに言った。「アルマは気づいているか?」

「おそらく、はい」漣は目を伏せた。「私が第九局のアーカイブにアクセスした際、同じ端末の痕跡に混じって、別の調査履歴が残っていた。流出した仮面の追跡記録だ。丁寧に、しかし確実に、誰かが経路を辿っていた」

 鏡花の仮面の奥で、何かが揺れた気がした。表情は読めない。だが肩が、ほんの少し——ほんの少しだけ、内側に縮んだ。

「つまり」と透は言った。声が震えないよう、自分の中の何かを握りしめながら。「私たちは、最初から追われていたのかもしれない」

 誰も否定しなかった。

 漣が空を見上げた。ドームの天板が乳白色に輝き、本物の空の青を永遠に遮断している。「私がこの話を君たちに打ち明けたのは、単に情報を共有したかったからではない。感情バンクの存在が外部に漏れたということは——アルマの計画に、初めて綻びが生じたということでもある」

「綻び」透は繰り返した。

「その仮面が礎の元へ辿り着いたのも、偶然ではないかもしれない。地下の集会が今も続いているのも。何かが、意図せず動き始めている」

 鏡花が再び口を開いた。今度は、仮面の下から声が出ているとは思えないほど静かな声で。

「七番目の感情の記録を持っていけ、と礎は言った。でも今の話が本当なら、その記録自体がアルマの管理下にある感情バンクから漏れ出たものということになる。礎はそれを知っているのだろうか」

 透は答えられなかった。

 三人の間に再び沈黙が落ちた。今度は先ほどより重い。単なる驚愕の沈黙ではなく、次の一手を探りあう緊張の沈黙だった。浄水塔の影が少しずつ角度を変え、地面の上を滑っていく。世界はいつも通りに回転を続けている。ドームの中で、市民たちは今日も仮面をつけて規律正しく出勤し、管理された感情を正常値に保ちながら生きている。そのすべての内側が、巨大な器に吸い上げられ続けているとは知らずに。

 透は自分の首筋に触れた。チップの熱が静かにそこにある。感情の写しを作り続けているその小さな装置が、今はひどく他人のものに感じられた。

「礎に会いに行く」と透は言った。「約束は守る。でも今度は、もっと多くのことを訊く」

 鏡花が透を見た。白磁の仮面の奥に、何かが確かに宿っている。

「一つだけ教えておく」彼女は静かに言った。「礎は以前、アルマの研究機関にいた人間だ」

 その言葉が地面に落ちて砕け散るまで、透には少し時間がかかった。

 老人の指が弦を弾く音が、遠くで再び響いたような気がした。

硝子の都市と百の仮面

27

アルマの記憶装置

御影 澄架

2026-06-08

前の話
第27話 アルマの記憶装置 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版