警報は、音ではなかった。
壁が震えた。ガラスとガラスの間に封じ込められた気圧が、突如として変動したのだ。鏡花の隠れ家——地下三層の廃倉庫を改造した工房——の天井が、まるで生き物のように微かに軋んだ。透はその振動を、骨で感じた。
「来た」
鏡花は一言だけ呟いて、作業台の上の仮面を布で覆った。手際に迷いはなかった。しかし透には、その動きがいつもより僅かに速いと分かった。速い、ということは、怖れている、ということだ。
「執行官か」
「そう判断するのが妥当ね」
彼女は工房の奥へ走り、壁の一枚に手をついた。隠し扉が開く。その向こうは暗い通路で、かび臭い空気が流れ出してきた。旧時代の下水路の名残だと、以前に漣が地図を見ながら説明していた。
「先に入って」と鏡花が言った。
「お前は」
「機材を壊す。記録が残っちゃまずい」
透は一瞬躊躇した。が、鏡花はすでに背を向けて、棚に並んだ感情チップの予備を床に投げ落とし始めていた。踏み砕く音が、硬質な倉庫に反響した。
透が通路に踏み込んで三秒も経たないうちに、工房の外から別の衝撃が来た。ドアが破られる音。執行官特有の、感情を持たない足音。等間隔で、機械のように近づいてくる。
鏡花が飛び込んできた。
隠し扉を閉めると同時に、外で怒声が上がった。通路の暗闇の中で、二人は並んで壁に背をつけた。息を殺す。透の心臓が、自分の意思とは無関係に音を立てていた。
チップが「恐怖」の数値として記録しているかもしれない、と頭の片隅で思った。しかしその思考はすぐに薄れた。今は生き延びることだけを考えなければならない。
鏡花が先に動いた。暗闇の中で彼女の輪郭だけが見える。白いコートの裾が翻り、足が迷いなく廃水路を進む。透は無言でついていった。
しばらく走った。
執行官の足音が遠ざかっていく。隠し扉が発見されなかったのか、それとも別の経路を探しているのか。どちらにせよ、猶予は短い。
突き当たりを左に折れた瞬間、鏡花の足が躓いた。
旧時代のコンクリートの割れ目に、つま先が引っかかったのだ。透が咄嗟に手を伸ばした。彼女の腕を掴む。が、勢いは殺しきれず、二人は絡み合うように壁に激突した。
乾いた音がした。
陶磁器が割れるような、きれいな音だった。
透は最初、何が起きたか理解できなかった。鏡花がゆっくりと体を起こし、壁から離れる。その顔に手を当てた時、ようやく分かった。
仮面が、割れていた。
鏡花が常に着けていた、滑らかな白磁のメインの仮面。左の頬から顎にかけて、ひびが走り、欠片がいくつか床に落ちていた。暗闇の中でも、その破片は白く光った。
鏡花は手で顔を覆おうとした。
が、遅かった。
透は、見た。
暗がりの中で一瞬だけ、彼女の素顔が露わになった。
それは——。
透の言葉が、喉の奥で凍りついた。
女の顔だった。当然だ。しかしその頬から側頭部にかけて、いくつもの線が走っていた。施術痕だ、と理性が告げた。しかしそれは単純な手術の痕ではなかった。皮膚の下に、何かが埋め込まれていた。小さな隆起が、等間隔に並んでいた。光の加減によって、金属的な輝きさえ見せた。
チップだ。
感情チップが、直接、皮膚の下に。
一つではない。透の目は無意識に数えていた。側頭部に三つ、頬骨の下に二つ、顎の縁に一つ。計六つ、あるいはもっと——暗くて、彼女の手が遮って、それ以上は見えなかった。
「見るな」
鏡花の声は、透が今まで聞いたことのない声だった。
怒りでも、哀しみでもなかった。命令でも、懇願でもなかった。それはただ、剥き出しの、どこにも分類できない何かだった。
彼女は仮面の欠片を拾い集め、素早く顔に当てた。割れたままでも、形は一応保っている。荒いテープで貼り合わせた仮面は、もはや完全な白ではなく、無数の亀裂を走らせた哀れな陶器の断片だった。
沈黙が落ちた。
執行官の足音は、まだ遠くに聞こえていた。逃げなければならない。それは分かっていた。しかし透の足は動かなかった。
「鏡花」
「行くよ」
「お前は——」
「行くって言ってるでしょう」
彼女の声は今度は硬かった。鋭利な金属のように。触れれば切れる。それでも透は、引き下がれなかった。
「あれは実験の痕か」
沈黙。
「政府の実験、だったんだろう。お前が——」
「透」
彼女が振り向いた。割れた仮面の向こうで、目だけが見えた。感情を読み取る術がない。けれど透には、何かが伝わった気がした。痛みのようなもの。長い時間をかけて、丁寧に積み上げられた痛みが。
「今は逃げるだけでいい。それ以外のことは、今は、要らない」
それきり彼女は前を向いた。
透は彼女の背中を見た。白いコートに、壁の汚れがついていた。ひびの入った仮面が、暗闇の中でかろうじて彼女の顔を覆っている。
何かが、変わった、と透は思った。
自分の中で、ではない。二人の間で、何かが変わった。壊れた仮面の欠片と一緒に、ある距離が床に落ちて、砕けた。
鏡花が歩き出した。透はその後に続いた。
廃水路の先には、もう一つの出口があった。かつての物資搬入口の名残だと思われる金属の扉を押すと、地下二層の廃区画に出た。零に会った場所からそう遠くない。透はあの場所の空気の匂いを、肺の奥に思い出した。
外は静かだった。執行官の足音は、もう聞こえない。
鏡花はその場にしゃがみ込み、割れた仮面の破片を一枚一枚確認した。修復できるかどうかを見ている。透は少し離れたところに立ったまま、彼女の様子を見ていた。
彼女の指が、額の端の欠片を拾い上げた時、その白い指先に微かな震えがあるのを透は見た。
胸の奥が、痛んだ。
チップが記録する「悲哀」の数値に、透は今初めて意味を感じた。これが、それだ、と思った。数字ではなく、これが。
「礎という人間を探す」と透は言った。
鏡花が顔を上げた。割れた仮面の隙間から、目が見える。
「零が教えた」
「…知ってる」
「お前も?」
「名前だけ」彼女はゆっくりと立ち上がった。「チップを体の外から管理した最後の世代の生き残りだって話を、聞いたことがある。だから」
そこで彼女は言葉を切った。
「だから?」
「だから会いたくなかった」
透は黙って待った。鏡花は続けなかった。
廃区画の上方から、かすかな光が差し込んでいた。地上のドームが放つ人工光が、何層もの廃材と床板を透かして、ここまで届いている。硝子の都市は、地下の闇にまで光を送り込む。すべてを照らし、すべてを見張るために。
鏡花が割れた仮面を、丁寧にコートのポケットにしまった。
素顔を晒したまま、彼女はしばらく動かなかった。
側頭部の施術痕が、かすかな光の中で、静かに光っていた。
六つの、あるいはもっと多くの、埋め込まれたチップ。それぞれが何を記録し、何を書き込まれたのかを、透はまだ知らない。しかしその痕は確かに告げていた。この人間は、誰かの設計図の上に作られた、と。
透は一歩、近づいた。
鏡花は動かなかった。逃げなかった。
「行こう」と透は言った。
鏡花は小さく頷いた。
二人は並んで歩き始めた。
胸の奥に残った、あの痛みを抱えたまま。