礎の語りが部屋の隅に残滓のように漂っている気がした。老人の声は消えても、その言葉の重さだけが三人の間に沈殿していた。
地下集会場の薄明かりの中、漣が最初に口を開いた。
「感情バンクに入る」
断言だった。問いでも提案でもなく、すでに決めていたかのような静かな確信がそこにあった。中年監察官の顔に、透はいつもと違う何かを見た。体制の守護者を演じ続けてきた男の奥底から、別の何かが滲み出しているようだった。
「感情バンク」と鏡花が繰り返した。複数の仮面のうち今日は白磁の薄い一枚をつけていたが、その声には驚きよりも計算の冷たさが混じっていた。「アルマの中枢データベース。カガミア全市民の感情記録と、廃止された七つの感情のサンプル。あそこに手が届けば」
「届けば、証明できる」漣が手帳を開いた。長年にわたって書き続けてきた記録の、最後のページに差し掛かっているような手つきだった。「アルマが感情を廃止したのは管理のためではなく、収集のためだった。廃止した感情を消したのではなく、保存した。なぜ保存する必要があったのか。それを市民に見せることができれば」
「証明して、どうする」
透の問いに、二人が振り返った。
透は自分でも驚いていた。問いが口をついて出た。礎との対話の後から、自分の中で何かが変わっている。黙って従っていた自分が、黙っていられなくなっていた。
「証明して、何かが変わるのか。市民はチップで感情を管理されている。真実を見せても、それに反応する感情さえ数値で抑制される。怒りが芽生えた瞬間に、チップが電気信号でそれを消す」
「そのとおりだ」漣が静かに言った。「だから感情認証ロックを突破するだけでは足りない。バンクに入り、データを外部に解放し、それと同時に、感情抑制チップのマスターコードを書き換える必要がある」
沈黙が落ちた。
鏡花が立ち上がり、壁のひび割れに沿って指を走らせた。まるで何かを数えているように。
「技術面で言えば、感情バンクへのアクセスには三段階のロックがかかっている。第一が物理的なコード、第二が職員認証、第三が感情認証だ。第三のロックは生体感情スキャンで作動する。特定の感情パターンを検知しなければ通過できない仕組みになっている。感情を持つ者だけが入れる、という設計上の皮肉だね」
「どの感情だ」透が訊いた。
「廃止された感情のうちのひとつ。記録では『渇望』とある」
透の胸の中で、何かが締まるような感覚があった。渇望。あの夜、工場の廃棄仮面の中に手を触れた瞬間から、自分の中に棲みついたもの。消えない問い、埋まらない空洞、それでも前に進もうとする重力。
「つまり、透にしか突破できない」漣が言った。感情的な色を排した、事実の確認として。
「私はコードと機材を用意する」鏡花が透に向き直った。白磁の仮面の向こうで、視線だけが真剣な光を帯びていた。「漣は内部アクセスコードを。透は渇望の感情を持ち込む。三人でなければ成立しない。足りないピースはない」
漣が手帳に書き始めた。感情管理省の内部に精通した監察官だけが知るコードを、惜しみなく紙に落としていく。長年の二重生活が、今この瞬間のためにあったかのように。
「第一コードは私が調達できる。物理的なコードは月次更新だが、次の更新まで十二日ある。実行は十日以内だ」
「場所は」
「感情管理省の地下三層。市民には存在を知らされていない層だ。表向きは設備室になっている。私のIDで地下二層までは入れる。三層への降下口は保守員専用になっているが、保守員の制服と認証タグがあれば通過できる」
「制服と認証タグは私が偽造する」鏡花がさらりと言った。透は今更ながら、この技師の能力の幅に息を呑んだ。「透の分も用意する。漣は正規の職員として、透は保守員として入る。私は外部からシステムにアクセスして、内部の動きをサポートする」
「あなたは行かないのか」
「私の顔は知られすぎている。政府に」
その一言に、鏡花の過去の断片が透いて見えた気がした。政府の実験体だった疑惑。素顔を誰にも見せない理由。問おうとしたが、今ではないと思った。
計画が具体性を持つにつれ、部屋の空気が変わった。緊張が、静かな熱に変わっていく。漣の記録する手が、初めて迷いを持たなくなった。鏡花が部品のリストを脳内で組み上げているのが、その沈黙の質から伝わった。
だが透の中では、一点だけ、澱のように引っかかるものがあった。
「渇望を、道具として使う」
呟きだった。二人に向けた言葉というより、自分自身への確認のようなものだった。
「それが嫌なのか」と鏡花が訊いた。責めるでもなく、探るでもなく。
「わからない」透は正直に答えた。「渇望は、俺の中で、俺のものだった。あれが芽生えてから、初めて自分が自分であると感じた。それを感情認証ロックを突破するための鍵として使うとき、俺はまだ俺でいられるのか」
しばらく誰も喋らなかった。
漣が、ゆっくりと顔を上げた。
「自分の感情を手段として使うことへの疑問。それこそが、自我のある人間の証明だ。チップで制御されている人間には、その問いが生まれない。白瀬、お前が今抱いている葛藤が、すでに答えのひとつだ」
透はその言葉を、胸の奥にゆっくりと収めた。
道具として使うことは、渇望を失うことではない。渇望を持ちながら、それを世界に向けて解き放つことだ。礎が言っていた。渇望は問いを生む。問いは変化を生む。その連鎖を、都市全体に広げる。それが今回の意味だ。
「やる」透は言った。「俺が認証ロックを突破する」
鏡花が頷いた。短く、しかし確かに。漣は何も言わずに、手帳に最後の一行を書き加えた。
計画が、三人の間に静かに立ち上がった。言葉の少ない約束が、硝子のように透明で、それゆえに壊れやすく、しかし今この瞬間だけは、純粋に輝いていた。
帰路、地下の廃墟を抜けながら、透は天井の隙間から見える人工ドームの光を見上げた。カガミアの光は乱反射する。何もかもが映り込み、何もかもが歪む。自分の顔ですら、この都市では正確に映らない。
だが今夜、透は初めて、はっきりと自分の輪郭を感じていた。
その時だった。
廃墟の角に、人影があった。仮面をつけていない、素顔の人間。
零だった。
何かを言いかけたように唇が動いた。しかしその体は次の瞬間、まるで光の中に溶けるように消えていた。残ったのは、石畳に刻まれた一文だけだった。
——感情バンクには、もうひとつの扉がある。