月例放送の朝は、いつも光から始まる。
カガミアの全域に敷かれた反射パネルが、日の出と同時に一斉に角度を変え、ドームの内壁から柔らかな金色の光を広場へ向けて降り注がせる。人工の夜明けだ。本物の太陽がどんな顔をしているのか、透は知らない。ドームの外の空がどんな色なのかも、誰に教わったこともない。ここで生まれた者はみな、この設計された光の中で目を覚ます。そうして疑問を持つ前に、美しいと思う。
工場の更衣室で作業着から支給服に着替えながら、透は同僚たちの動きを横目で見ていた。月例放送の日、午前八時から三十分間は全就業者が作業を停止し、最寄りの市民広場でスクリーンを視聴することが義務づけられている。規則ではなく「慣習」と呼ばれているが、参加しなかった者の記録がどうなるかは、誰もが薄々知っていた。
「今月も執政官さまのお言葉が聞けますね」
隣のロッカーの男が、頬を緩めながら言った。四十代の工員で、名前は確か、ウラタといった。仮面の目元の形で感情を主張することを好む、陽気な表情筋の持ち主だ。透はひとつ頷いて、それ以上は答えなかった。
外に出ると、すでに人の流れが広場へ向かっていた。
第三区画の中央広場は、カガミアの基盤を成す六角形の構造のひとつで、ガラス張りの高層棟に三方を囲まれている。どの壁面にも鏡面コーティングが施されており、集まる人々の姿が幾重にも反射して、まるで群衆が何千人にも増殖したように見える。透はその光景がどこか落ち着かなくて、いつも視線をスクリーンの方へ逃がす。
正刻の少し前、スクリーンがゆっくりと明るくなった。
最初に映し出されたのは、白い花だった。カガミア市花とされる人工培養の白玻璃花、その群れが風に揺れる映像に重なるように、弦楽器の旋律が流れ出す。透は知っている、これが前奏だ。音楽が一段落するたびに、人々の姿勢が少しずつ変わっていく。肩が落ちて、呼吸が深くなって、目線がスクリーンに吸い寄せられていく。透自身の身体も、その作法に慣らされていた。
そして、彼女が現れた。
アルマ。カガミア最高執政官。
映像の中の彼女は、純白の衣をまとい、執政府の円形ホールの演壇に立っていた。その仮面は、透が今まで見た中で最も精緻なものだった。素材はおそらく白磁か、あるいは白磁に似せた特別合金か。表面には目に見えないほど細かな浮き彫りが施されており、光の角度によって模様が浮かんでは消える。目の開口部は大きく、そこから覗く瞳は淡い灰色。仮面の輪郭は顔のどこで終わるのかわからないほど肌に沿っており、まるで顔そのものが仮面であるような不思議な一体感があった。
「皆さん、おはようございます」
声は、温かかった。
否、温かいという言葉では足りない。春の陽だまりに似た、柔らかな声。その声には棘がなく、恐れがなく、批難がなかった。ただそこにあるだけで、人を安心させる種類の声だった。
「今月もまた、皆さんの顔を見ることができて、私は幸せです」
広場のあちこちから、小さなため息がもれた。
「カガミアの調和は、皆さん一人ひとりが築くものです。あなたの穏やかな一日が、あなたの隣の方の穏やかな一日を守っています。皆さんが感情の均衡を保ち、秩序の中に生きることが、この都市の美しさを形づくっています」
透の隣でウラタが鼻を赤くしていた。目元の仮面の縁に、光るものが滲んでいた。
「あなたたちは、私の誇りです」
アルマがそう言った瞬間、広場に満ちていた静けさが、ほんの少し別の質感に変わった。安堵でも感動でもない、もっと受動的な何かだ。群衆の身体から同時に力が抜け、彼らはただ映像に向かって傾いていった。まるで引力があるように。まるで声そのものが、チップに直接語りかけているように。
透は目を細めた。
スクリーンの中のアルマは、完璧だった。間の取り方、声の抑揚、手の動き、すべてが計算されたように滑らかで、しかしどこにも計算の痕が見当たらない。それが技術の極みなのか、あるいは全く別の何かなのか、透には判断ができなかった。
だが、仮面を作る者として、透にはわかることがあった。
良い仮面というのは、感情を隠す。感情を遮断し、内側を守る。だから仮面の下には必ず、何かがある。怒りでも悲しみでも、あるいは疲れでも、喜びでも。仮面の存在そのものが、その人間の内側の存在を証明する。
しかし、アルマの仮面の下には。
透は気づかないうちに、息を止めていた。
アルマの目が映像の中でゆるやかに動き、視線がこちらを向いたように感じた瞬間、透は反射的に仮面の内側を覗き込もうとした。もちろん映像越しにそれができるはずはない。それでも、何かが見えた気がした。見えた、というより、見えなかった。
仮面の奥に、何もない。
感情を隠した沈黙ではない。怒りを圧し殺した緊張でもない。悲しみを飲み込んだ強張りでもない。ただ、空虚だった。感情の不在ではなく、感情を持つための何かが、そもそも存在しないかのような、完全な空白。
「どうしました、白瀬さん」
唐突に声をかけられ、透は我に返った。ウラタが仮面の目元を歪めて、心配そうにこちらを見ていた。
「立ったまま固まってたから。気分でも悪いですか、チップの値は大丈夫ですか」
「……いえ」
透は首を振った。
「少し、眩しかっただけです」
ウラタは納得したように頷いて、再びスクリーンへ視線を戻した。広場の人々も同様で、誰もが今のアルマの言葉の余韻の中にいた。放送はまだ続いている。今月の感情指数の統計報告、優秀区画への表彰、そして来月の均衡評価についての告知。
透はもう、内容を聞いていなかった。
胸の奥で何かが、かすかに疼いていた。それを言葉で表すことが、透にはできなかった。渇望でも怒りでもない、もっと輪郭の曖昧な感触だ。昨夜捨てられなかった仮面の欠片が、上着の内ポケットの中で熱を持つような感触とよく似ていた。
アルマが笑っていた。
最後の締めくくりの言葉を告げながら、彼女は穏やかに笑っていた。その笑顔は美しく、慈悲に満ちていて、カガミアという都市のすべてを象徴しているようだった。
それなのに透の目には、その笑顔が遠かった。ガラスの向こうで映像が動いているような、あるいは人形が精巧に顔の筋肉を模倣しているような、そんな奇妙な距離感があった。
放送が終わり、人々が思い思いに感想を口にし始めた。
「今月も素晴らしかった」「あのお声を聴くたびに、ここに生まれてよかったと思う」「執政官さまがいてくださる限り、カガミアは安泰ですね」
透はその言葉の列の中を、黙って歩いた。
工場へ戻る道の途中、ガラス壁に自分の顔が映った。規格通りの仮面、規格通りの表情、規格通りの透が、透を見ていた。
――あの空虚は、本当に空虚だったのか。
それとも自分が見ていないだけで、本来は誰の仮面の下にも、何もないのだろうか。
答えは出なかった。ただ問いだけが、欠片のように透の胸に留まり続けた。
捨てられない欠片と同じように、どこにも行こうとせずに。