川面の灯篭が、また一つ消えた。
夜依は窓の外を見るともなく見ながら、古いデータケースの留め金を外した。金属が軋む音が、静まり返った事務所に小さく響く。壱は向かいのソファに腰を下ろし、膝の上に解析端末を広げたまま、何も言わずにいた。
「三年前の話をする」
夜依は言った。声に感情はなかった。まるで他人の案件を説明するときのように、平らな声だった。
「聞く」
壱の返事も短い。二人の間に、千重がいないことがかえって部屋を広くしていた。今夜、少女は糸村百合江の部屋に預けてある。理由は言わなかった。百合江は何も聞かなかった。
データケースの中に、ホログラム格納筒が三本並んでいた。法廷提出用の標準規格。透明なプラスチック越しに、結晶化した記憶の断片が青白く光っている。
「これが、私の記憶だ」
夜依は中央の一本を取り出し、卓上の投影台に置いた。起動音と共に、空中に光の幕が展開される。
三年前の法廷が、そこに現れた。
夜依自身が、証言台に立っている。白いスーツ。切り揃えた黒髪。今より少し若く、しかし今の夜依が持っていない何かを——余裕と呼んでもよかったし、傲慢さと呼んでもよかった——顔の端々に漂わせていた。
映像の中の夜依が口を開く。
「私は、あの夜、事務所にいました。記録端末のログが証明します。依頼人の記憶データを改竄した事実はありません」
はっきりとした声だった。嘘ではなかった。当時の夜依は、それが真実だと信じていた。
「この後、検察側の記憶ホログラムが提出される」
現在の夜依が言った。投影に背を向け、壱の方を向く。「そこに映っているのは同じ夜の私だ。けれど内容が違う。端末の前に座って、データをいじっている。指紋も、音声も、完璧に私と一致していた」
「それが改竄されたものだ」
「そう。だが私には、その夜の記憶がない。ないのか、消されたのかも、当時はわからなかった。——今もわからない」
最後の言葉は、少しだけ違う質感を持っていた。平らな声が、そこだけかすかに沈んだ。
壱は端末から目を上げた。
「自分が本当にやったかもしれないと思うか」
「思う。今でも、たまに」
夜依は窓の方へ歩いた。川面の灯篭が揺れている。橙と白、混ざり合った光が水面に伸びては縮む。
「記憶というのは奇妙なものだ。改竄されたホログラムを何度も見せられると、それが自分の記憶のように感じ始める。脳が映像に引きずられる。法廷で私は百回以上あのホログラムを見た。弁護側の異議申し立てのたびに再生された。私は毎回、自分があの端末の前に座っているのを見た。——気づいたときには、自分がやったかもしれないと思い始めていた」
「認知汚染だ」
「そう。記憶証拠の最も悪質な使い方。本人の自己認識を崩す」
壱は立ち上がり、投影の前に歩み寄った。ホログラムは静止している。証言台に立つ、三年前の夜依の顔が宙に浮かんでいた。
「検察側のホログラムはあるか」
「ある。見たくはないが」
夜依は振り返らずに言った。
「見せてくれ」
沈黙があった。川の方から、遠く水音がした。
夜依がケースに戻り、別の格納筒を取り出した。これを最後に開けたのはいつだったか、もう覚えていない。開けるたびに何かが削られる感じがして、ある時期から封印するように引き出しの奥にしまい込んでいた。
投影台に置く。光が展開する。
現れたのは、薄暗い部屋の映像だった。事務所の一室。端末の青い光に照らされた人物の後ろ姿——そして振り返った顔。
夜依の顔だった。
表情は無機質だった。まるで仕事をこなすように、データの書き換えを行っている。指が端末を叩く音まで収録されていた。リアルだった。完璧なまでにリアルだった。
「……」
壱は無言で端末を構えた。光学センサーをホログラムに向け、記録を始める。夜依は見ていなかった。窓の外だけを見ていた。
どれだけの時間が経ったか。
「夜依さん」
壱が呼んだ。声に、いつもより僅かに力があった。夜依が振り向く。
壱の端末の画面に、ホログラムの拡大解析映像が映っていた。光の粒子の配列パターン。夜依には専門的な意味は読めないが、壱の表情が語っていた。
「これを見てくれ」
壱は端末を差し出した。画面には、映像の一部が極限まで拡大されている。光の粒子の境界線——像と像の縫い合わせ部分。
そこに、見覚えのある模様があった。
縫い目。
光の縫い目。
不規則なようでいて、一定の周期を持つ、特有の歪み。
夜依の手が止まった。
「これは」
「カイロだ」
壱の声は静かだった。しかし静かであることが、かえって重さを持っていた。
「東灯工場の事件で採取したパターンと、周期誤差〇・〇〇三以内で一致する。同一の改竄師の仕事だ。——あなたの冤罪を作ったのは、カイロだ」
夜依はしばらく、端末の画面を見ていた。
縫い目が、青白く光っている。
三年間、自分を蝕んできたものの正体が、今、このちっぽけな画面の中にあった。自分がやったかもしれないと思い続けた夜、法廷に立つたびに膝の内側で震えを殺した夜、依頼人の前で自信を持って喋ることができなくなっていった夜——その全部の根っこに、この光の縫い目があった。
「……そうか」
夜依は言った。
それだけだった。
でも声の質が、変わっていた。
沈んでいたものが、別の何かに変わる途中の声だった。悲しみが熱を持ち始めるときの、あの感覚。水が沸点に近づくときの静けさに似た、内側の変化。
壱は夜依の横顔を見ていた。何も言わなかった。言葉は要らないと判断したのか、それとも言葉を持たなかったのか、壱自身にも区別がつかなかった。ただ、夜依の横顔に何かが灯るのを、壱は見ていた。
「カイロを見つける」
夜依は言った。今度の声は、完全に平らではなかった。低く、乾いていて、しかしどこかに火種が生きていた。
「三年前と今の事件が繋がっている。カイロは一つの案件だけを請け負う改竄師じゃない。誰かに雇われて、複数の事件を操作している。——東灯工場も、私の冤罪も、同じ依頼主かもしれない」
「その可能性は高い」
「だとすれば」
夜依は投影台のホログラムを見た。三年前の自分の顔が、宙に浮いている。
「私が負けた裁判は、最初から勝てないように作られていた」
言葉にすると、奇妙な解放感があった。自分の無能を呪い続けた三年間が、別の形に組み替えられていく。自己不信の根が、怒りへと形を変えていく。それは楽ではなかった。怒りは痛みより重たく、持ち運ぶのに力がいる。それでも。
夜依は投影を切った。
部屋が、元の暗さに戻る。川面の灯篭だけが、窓の外で揺れていた。
「壱」
「何だ」
「そのデータ、保存しておけ。裁判で使えるレベルに精製してくれ」
「やる」
壱は端末に視線を戻しながら言った。「でも一つ確認したい」
「何だ」
「カイロを追うということは、カイロを雇った人間も追うことになる。——それが誰だとしても」
夜依は少しだけ間を置いた。
「それが誰だとしても」
繰り返した言葉は、答えだった。
壱は頷かなかった。ただ端末の操作を再開した。キーを叩く音が、静かな事務所に規則正しく続く。
夜依はもう一度だけ、窓の外を見た。川に浮かぶ無数の灯篭。光の群れが、ゆっくりと下流へ流れていく。一つ一つは小さく、水面に映った像は歪んでいる。それでも流れは止まらない。
格納筒をケースに戻しながら、夜依は思った。
カイロは、今も誰かの記憶を縫い続けているのだろうか。
そして——千重の記憶のない理由を、カイロは知っているのだろうか。