灯京の夜は、嘘を塗り込んだように美しい。
川面に揺れる無数の光は、亡者を送る万灯流しを模した意匠だと聞いたことがある。創設者たちが都市に与えた詩情——しかし糸村百合江はかつて、「あれは鎮魂ではなく、封印のための光だ」と呟いた。夜依はその言葉の意味をまだ完全には理解していない。
最高検察庁の最上階。灯京の夜景を一身に受けるように設えられた執務室に、蒼川礼司は立っていた。
背は高く、肩幅は広い。白髪交じりの髪を几帳面に撫でつけた五十代の男は、窓の外を眺めながら片手にデータパネルを持っていた。表情は動かない。彫刻めいた静けさで、川面の光の揺らぎだけを目で追っている。
「東灯工場の件、判決が出ました」
部下の声が背後から届いた。三十そこそこの検事補——木ノ葉 誠司という名の、細面で神経質そうな男だ。
「知っている」蒼川は振り返らなかった。「被告側の全面勝訴。記憶証拠の信憑性を崩した——瀬戸夜依の仕事だな」
「はい。提出された記憶ホログラムに、第三者的改竄の痕跡があったと。担当判事の溝口が……」
「溝口は優秀だ。正直すぎるのが欠点だが」
蒼川はようやく振り返った。視線が木ノ葉に向けられると、男は反射的に背筋を伸ばした。蒼川の目は暗く、深く、しかしどこか灯台の光に似ている——遠くを照らすために在る、と感じさせる種類の光だ。
「瀬戸夜依について報告書を上げろ」蒼川は静かに言った。「現在の事務所の規模、直近の受任案件、協力者の素性。それから——」わずかな間があった。「稲森壱の近況も含めて」
木ノ葉が手元のパネルに書き込む音がした。
「稲森は……元記憶技術院の研究員ですが、三年前に資格を返上して以来、民間に」
「彼が民間に出た理由を、きみは知っているか」
「記録では、自主退職と——」
「記録はそう言っている」蒼川は淡々と遮った。「だが記録とは、誰かが書いたものだ。書かれたものが真実とは限らない。それはわれわれが一番よく知っている」
執務室に沈黙が落ちた。川の光が窓に映り、蒼川の白いシャツの胸元で揺れた。
「瀬戸夜依」男はもう一度、その名を口にした。今度は独り言のように。「三年前——彼女が冤罪で失墜した時、きみはまだこの庁に来ていなかったか」
「はい。私は地方庁から異動したのが二年前ですので」
「そうか」
蒼川はデータパネルをデスクの上に置き、革張りの椅子に腰を下ろした。引き出しから薄い記録媒体を取り出し、指でその縁を軽く撫でた。媒体の表面には「封印済」を示す赤い帯が走っている。
「三年前。灯京第四区で連続する記憶窃盗事件があった。被害者は十一名。その事件の捜査に関わった証人が、偽の記憶ホログラムを法廷に提出した。証言の核心は——被告を犯行現場に結びつける映像記憶だ」
木ノ葉は静かに聞いている。
「当時、被告側の弁護士が瀬戸夜依だった。彼女はその証言の矛盾を突こうとした。記憶改竄の痕跡を見つけようとした。しかし」蒼川の指が、封印済みの媒体を一度だけ叩いた。「彼女自身の記憶記録が、証拠として提出された。事件関係者との不正な接触を示すものとして」
「それが……冤罪の根拠になった、と」
「そして弁護士資格を停止された。以来三年、彼女は民間の小さな事務所で細々と——正確には、活動を続けていた」
蒼川の言葉には温度がない。断罪でも同情でもなく、ただ事実を並べる器のような声だ。
「閣下」木ノ葉がわずかにためらいながら言った。「その……提出された記憶記録は」
「適正な手続きに従って収集されたものだ」
沈黙。
「記録の上では」と蒼川は付け加えた。
その一言が、何かを示唆している。木ノ葉はそれ以上問えなかった。
蒼川は椅子から立ち上がり、再び窓へと近づいた。川面の光が遠く、静かに揺れている。
「彼女が戻ってきた」と蒼川は言った。言葉の裏に何かが沈んでいる。畏れではない。警戒でもない——強いて言うなら、古い傷が疼く時に漏れる息のような何かだ。「東灯工場の件は偶然ではない。彼女は何かを嗅ぎつけている。あるいは誰かが、彼女を使って嗅がせようとしている」
「誰かとは」
「それを調べるのがきみの仕事だ」蒼川は振り返らない。「事務所に出入りする人物を全員把握しろ。特に——記憶を持たない少女がいるという話を聞いた。その素性を最優先で」
木ノ葉の手が一瞬止まった。
「記憶を……持たない、少女ですか」
「名前は双葉千重というらしい」蒼川の声は、そこだけわずかに変わった。ほとんど聞き取れないほどの変化だが、木ノ葉には分かった。この男が感情を動かした時の、かすかな息継ぎ。「どこから来たか、誰が連れてきたか——すべて報告しろ。ただし」
間があった。川の光が揺れた。
「接触はするな。まだ時期ではない」
木ノ葉は何も言わず、礼をして執務室を出た。重厚なドアが閉まると、蒼川はひとりになった。
男は窓の前に立ちつくし、灯京の夜を見下ろし続けた。
瀬戸夜依。
その名を、蒼川は三年間、意識の底の引き出しに仕舞っておいた。引き出しには鍵をかけていた——かけていたつもりだった。東灯工場の判決報告を聞いた瞬間、鍵が音を立てた。
彼女は無敗の弁護士だった。記憶技術が証拠として法廷に採用され始めた黎明期に、その矛盾と脆弱性をいち早く見抜いた稀有な法律家だった。蒼川は認めていた——法の外で認めていた。
そして彼は、その牙を折った。
正義のために、と蒼川は思っている。今もそう思っている。灯京という都市は、精密な機械だ。一本の歯車が狂えば、百万の市民の生活が揺らぐ。記憶を証拠とする法体系は、まだ生まれたばかりの脆い仕組みだ。その仕組みを守るためには、時に——時に、不純物を除かなければならない。
しかし。
蒼川は窓に額を近づけた。冷たいガラスの向こうで、万灯の光が川を流れていく。
しかし彼女は本当に、除かれるべき不純物だったか。
その問いに、蒼川は三年間、答えを出していない。答えを出す必要がなかった。彼女が灯京の外縁で細々と活動している限り、問いは眠っていた。
今、問いが目を覚ました。
蒼川は封印済みの媒体を手に取り、窓の光にかざした。赤い帯が川の光を透かして揺れた。この中には、三年前の記録が入っている。瀬戸夜依を断罪した記憶証拠の原本——そして、誰もまだ見ていない「もう一つの記録」が。
男はしばらくその光を見つめ、やがて静かに媒体をデスクの引き出しに戻した。
鍵をかけた。
今はまだ、時期ではない。
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同じ夜、灯京の下町にある古い雑居ビルの一室で、瀬戸夜依は堂島から受け取った脅迫についての覚書をデスクに広げていた。記憶改竄、東灯工場、組織の影——点と点の間に、まだ線が引けない。
「家族の名前を知っている」
あの言葉が、棘のように頭に刺さったままだ。
廊下から物音がして、ドアがぼんやりと明るくなった。千重が持っているデータ端末——灯篭型の小さな光——が揺れている。
「夜依さん、まだ起きてるの」千重は眠そうに目をこすりながら言った。「稲森さんも徹夜してるし、なんかみんな変だよ」
「変で結構」夜依は視線を書類から上げなかった。「寝てろ」
「うん」千重はそのまま廊下に消えようとして、ふと振り返った。「ねえ、夜依さん。夜依さんって、昔、すごく強い弁護士だったんでしょ」
夜依の手が止まった。
「稲森さんがちょっとだけ言ってた。昔の話。……傷ついたんだね、と思って」
「余計なことを」夜依は静かに言った。
「うん、ごめん」千重は謝った。それから小さな声で付け加えた。「でも、また強くなれると思う。なんとなく」
廊下の光が遠ざかり、夜依はひとりになった。
万灯の光が窓から差し込んでいる。川面に揺れる光は、鎮魂か、封印か——夜依にはまだ分からない。
ただ、背筋の奥に、今夜初めて感じる冷たさがある。
誰かが、見ている。