万灯流しから三日が経っても、あの白い灯篭のことが頭を離れなかった。
夜依は事務所の窓際に立ち、川面に揺れる夜の光を眺めながら、壱が淹れた緑茶を口に含んだ。千重は「見覚えがある」と言った。記憶を持たないはずの少女が、見覚えを感じた。その矛盾が、一枚の紙のように薄く鋭く、夜依の胸に刺さったままでいる。
「壱」
呼ぶと、壱はデスクから顔を上げた。いつもより反応が遅い。何かを考えていた、というより、何かを考えないようにしていた顔つきだった。
「燈市に行きましょう」
一拍の間があった。
「……いつかはそう言われると思っていました」
壱は静かにそう答えて、マグカップをデスクに置いた。
灯京の地下経済は、字義通り「地下」に存在している。
高架ターミナル駅の下、排水管と光ファイバーが複雑に絡み合った旧市街の地層に、燈市はある。正式な住所はない。辿り着けるのは、招待された者か、道を知る者だけだ。
壱は夜依を連れて、繁華街の外れにある薬膳料理店の前で立ち止まった。看板には「長命堂」とある。営業中を示す明かりが灯っているが、窓の中に人影は見えない。
「ここが入口です」
「飯屋が?」
「飯屋の振りをしている、が正確なところです」
壱は迷わず扉を開けた。漢方の刺激的な匂いが鼻を衝く。カウンターの奥に、白髪まじりの無表情な男が座っていた。壱を見た瞬間、その目が微妙に動いた。驚き、というより確認の動作に近かった。
「久しぶりだな、壱くん」
「ご無沙汰しています、神成さん」
壱が名前を呼ぶと、神成と呼ばれた男はカウンターの下で何かを操作した。奥の棚がわずかに動き、細い通路が現れた。壱は夜依に短く「どうぞ」と言い、先に足を踏み入れた。
通路は狭く、息が詰まるほどだった。十数歩歩いたところで急に視界が開ける。
夜依は思わず息を飲んだ。
燈市は、洞窟の中の祭りに似ていた。
天井から無数の小型灯篭型端末が吊り下げられ、その光が壁に揺らめいている。地上の川面を模したように設計されているのか、床には薄く水が張られた通路があり、光の反射が揺れ続けている。店舗は露店形式で、仕切り布一枚で区切られた区画が迷宮のように連なっていた。
売られているのは、記憶だ。
改竄済みの記憶、抽出された他人の記憶、存在しない体験を植え付ける「素材」記憶——法廷への提出が禁じられている類の、全ての記憶が、ここでは当然のように値段をつけられて並んでいる。
「圧巻でしょう」
壱が感情のない声で言った。
「初めて来た時は、僕も同じ顔をしていました」
「あなたはここで働いていたの」
「働いていた、というより、存在していた、と言う方が近いかもしれません」
曖昧な言い方だった。夜依は追及を一度飲み込んだ。今は情報収集が先だ。
壱は迷うことなく路地を歩いた。燈市の住人たちは、壱を見ても驚かない。数人が小さく頷き、一人がわずかに目を細めた。それは敵意ではなく、古い関係性の痕跡だった。
「カイロに繋がるブローカーに心当たりがあります。ここでは蝶番と呼ばれている人物で、本名は知られていません。何かと何かの間を繋ぐ役割を担っているから、そう呼ばれている」
「その人物に会えれば、カイロへのルートが開く?」
「開くかもしれない、という程度です。蝶番はひどく用心深い。特に、弁護士を嫌っている」
夜依は苦く笑った。「弁護士、ね」
「あなたのことは、別の肩書で通した方がいいかもしれません」
「何の?」
壱は少し考えて、「記憶の購入希望者」と答えた。夜依は反論しなかった。
蝶番の居場所だという区画は、燈市の最も奥まった一角にあった。仕切り布は他より厚く、重みがある。光もここだけ少し暗い。
壱が布の手前で立ち止まり、特定のリズムで布の縁を叩いた。コツ、コツ、コツ——間を置いてもう一つ。返答はない。
もう一度。
やはり、沈黙。
「不在ですか」
「いや」壱は首を振った。「います。気配がある。出てこないんです」
「なぜ」
「……僕が来たから、かもしれません」
夜依は壱を見た。壱の横顔は、珍しく感情の痕跡を宿していた。それが後悔なのか、あるいは全く別の何かなのか、夜依には判別できなかった。
「壱。あなたはここで、何をしていたの」
静かに、しかし明確に問うた。
壱はしばらく黙っていた。燈市の揺れる光が、彼の輪郭を不確かにする。
「記憶を、読んでいました」
「それは知っている。技術者として」
「技術者として、ではなく」壱は言葉を選んだ。「記憶を読んで——その人物の弱点を、依頼主に報告する仕事を、していました」
夜依は動かなかった。
「スパイ、ということ?」
「もっと卑しい言葉が似合います。記憶を盗み見て、それを売る仕事です。僕には感情が希薄だから、罪悪感も薄かった。効率がよかった。だから重宝された」
壱の声は終始平坦だった。しかし、その平坦さは何かを押さえつけることで保たれているように、夜依には聞こえた。
「蝶番には、かつてそういう仕事を仲介してもらっていた。だから——」
「だから、あなたを信用していない」
「辞めた人間を、この世界は信用しません」
夜依は布の向こうを見た。闇があるだけだった。
「分かった。今日は引きましょう」
「申し訳ありません。僕では——」
「謝罪は要らない」夜依は短く遮った。「あなたが辞めたことは、失敗じゃない。それだけは言っておきます」
壱は夜依を見た。何かが揺れた、と夜依は思った。水面に小石が落ちた時のような、小さくて確かな波紋。
帰路、二人は灯京の裏通りを歩いた。
夜の空気は湿っていて、川の匂いを含んでいた。高架の向こうに灯篭型端末の光がゆっくりと移動している。まるで意思を持つ生き物のように。
「一つ聞いてもいいですか」
壱が前を向いたまま言った。
「燈市に来た本当の目的は、カイロへの接触だけじゃないですよね」
夜依は足を止めなかった。
「千重のことを、調べたいのかもしれません」
「記憶のない少女が、あの白い灯篭を見覚えると言った」
「その灯篭は、燈市でも取引される素材記憶の梱包に使われる形式と酷似していると、あの場で気づきました」
今度は、夜依が立ち止まった。
壱も止まり、振り返った。その目に、感情の欠落した静けさと、しかし確かな意図が宿っている。
「千重さんの記憶が——封印されているとしたら、その鍵は燈市にあるかもしれない。カイロは、その封印を施した人物に近い位置にいる可能性がある」
言葉が、夜依の中に沈んでいく。
千重は今頃、事務所で百合江と茶を飲んでいるはずだ。あの笑いたくない冗談に笑ってしまうような、どこかの隙間から光が射し込んでくるような少女が。
「蝶番に会わなければ」
夜依は静かに言った。
「別の入口を探しましょう。あなたではなく、私が最初に話しかける形で」
「あなたが弁護士だと知られたら」
「知られなければいい」夜依の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。「嘘をつくのは、得意ですから」
壱は何も言わなかった。ただ、かすかに頷いた。
川の方から風が吹いてきた。灯篭の光が一斉に揺れ、影が長く伸びた。
その影の中に、夜依はまだ知らない誰かの顔を思い描いた。カイロ。改竄師。千重の封印を知る者。そして——この都市の創設に連なる、もっと深い何か。
扉は、開いていない。しかし、その輪郭だけは、もう見えている。