朝の灯京は、靄の中から生まれてくる。
川面に漂う灯篭型データ端末がひとつひとつ起動し、昨夜から蓄積された市民の記憶ログが整理されていく時間——夜依はいつもその青白い光の瞬きを、事務所の窓から眺めながらコーヒーを飲む。美しいと思う。そして同時に、おぞましいとも思う。
蝶番への接触が失敗に終わってから三日が経っていた。
壱はあの夜から口数がさらに少なくなり、自分の告白を恥じているのか、それとも単に処理しきれていないのか、判断がつかない。千重は相変わらず事務所の隅でわけのわからない絵を描いていた。山とも川ともつかない、しかしどこか懐かしい風景を、色鉛筆で丁寧に埋めていく。彼女の指が動くたびに、夜依は何かが解けていくような、しかし決して解けきらない感覚を覚えた。
インターフォンが鳴ったのは、午前十時を少し回ったころだった。
「瀬戸法律事務所……で、よろしいでしょうか」
モニターに映ったのは、三十代半ばと思しき女性だった。グレーのスーツに身を包み、髪を後ろで一つに束ねている。端整な顔立ちだが、目の下にうっすらと隈があり、何日も碌に眠れていないことが窺えた。手に持つ鞄を、指先が白くなるほど強く握っている。
夜依はコーヒーカップを置いた。
「どうぞ」
*
彼女の名前は鳥羽 鈴音(とば・すずね)といった。
灯京市議会議員・東堂 公平(とうどう・こうへい)の政策秘書を五年間務めているという。着席するなり、彼女は革張りのソファに背を預けることもせず、膝の上に鞄を置いたまま真っ直ぐ夜依を見た。その目に媚びはなく、しかし縋るものがあった。
「先生のご活躍は存じております。記憶改竄によって冤罪を負わされた方々の弁護を、何件も手がけていらっしゃると」
「それは私の事務所の評判を買いかぶっています」夜依はやんわりと遮った。「何をお持ちですか」
鳥羽は一瞬だけ目を伏せ、それから口を開いた。
話の輪郭はこうだった。
東堂議員は三年前から、市内の記憶データ管理会社「蓮華メモリクス」と癒着し、公共入札を不正操作していた。その証拠を掴んだのが、東堂の元政務秘書である若い男性——水無瀬 颯(みなせ・そう)だ。水無瀬は内部告発を試みたが、告発の直前に突然辞職し、以来口を閉ざしている。鳥羽は水無瀬の異変を不審に思い、独自に調べたところ、彼が記憶改竄を受けた形跡を発見した。
「水無瀬さんの現在の記憶ログには、告発に至るまでの経緯が綺麗さっぱり消えています。本人も覚えていない。不正を知っていた記憶ごと、抜き取られているんです」
夜依の視線が鋭くなった。
「それを立証する証拠は」
「私自身の記憶です」鳥羽は静かに言った。「東堂議員が水無瀬さんに改竄を施すよう指示している場面を、偶然目撃しています。私の記憶ログにそれが残っている。そのデータを提出することで——」
「少し待ってください」
壱が口を挟んだのは、そのときだった。
彼は部屋の隅の椅子に腰かけ、ずっと鳥羽の話を聞いていた。言葉ではなく、その人物をそのまま受け取るように。目を細め、何かを確かめるように。
「あなた自身の記憶ログを、最後に確認したのはいつですか」
鳥羽がわずかに眉を寄せた。「……先週です。告発の準備のために」
「そのとき、連続性に違和感は感じませんでしたか。前後の記憶の繋がりが、どこか不自然だとか」
沈黙が落ちた。
それはほんの数秒だったが、夜依には十分だった。鳥羽の指先が鞄の革を一度だけ、強く摑んだ。
「……確認する方法を、先生はご存知ですか」
問いで問いを返すのは、答えを知っているからだ。夜依は内心でそう判断した。
*
壱が鳥羽の記憶ログの解析を始めたのは昼過ぎのことだった。
彼は鳥羽から正式なアクセス権限の委任を受け、専用の解析端末に接触ログを展開した。指先が端末の表面を滑るたびに、薄い光の層が折り重なってはほぐれ、まるで布を丁寧に検反するような所作で記憶の繊維を辿っていく。
夜依は横に立って、黙って見ていた。
千重が珍しく解析室の入口から覗いていた。彼女は壱の作業を見るとき、いつも不思議そうな顔をする。他人の記憶が光として現れるのが、どこか自分に似ていると感じているのかもしれない。
「ありました」
壱の声は低く、感情の起伏が薄かった。しかし夜依にはわかった。それは彼が何か重要なものを見つけたときの、静謐な緊張の声だと。
「東堂議員が水無瀬さんへの記憶改竄を指示した場面——確かに記録されています。ただ」
彼は端末の表示を手元に引き寄せた。光の層がひとつ、また別の層から乖離するように浮き上がった。
「前後四十分の記憶に、縫い目があります」
「縫い目」
「繋ぎ目、と言い換えてもいい。自然に流れるはずの記憶が、ある一点で不自然に連結されている。映像で言えば、カットを繋いだ編集点のような」
夜依は目を細めた。「誰かが、鳥羽さんの記憶を一部削除して、別の記憶を挿入した」
「あるいは削除だけして、前後を繋ぎ直した。挿入かどうかはまだわからない。ただ——」壱は端末から手を離し、夜依を見た。「東堂議員の指示場面そのものは、改竄されていない可能性が高い。縫い目はその前後にある。つまり、その場面を見るに至るまでの状況が操作されているかもしれない」
沈黙の中で、夜依は考えた。
鳥羽は東堂の不正を暴こうとしている。その証拠である自身の記憶は確かに存在する。しかしその記憶の前後が改竄されているとすれば——法廷でそれを提出した場合、相手方は当然その矛盾を突く。被害者の証言が、加害者によって既に汚染されているという逆説。あるいは鳥羽自身が、知らぬまま証言の信憑性を失わされている。
記憶が証拠になるこの都市では、証拠そのものを腐らせることが最も効果的な防衛手段だった。
「先生」
鳥羽が入口から声をかけた。解析室の薄明かりの中で、彼女の顔は青白く見えた。
「私の記憶が……改竄されているということですか」
「一部、改竄の疑いがあります」夜依は言葉を選ばなかった。選ぶことが、この人への敬意を欠くと判断したから。「東堂議員の指示場面は残っている。ただ、それを目撃するまでの状況記憶が操作された可能性がある。その場面があなたにとってどういう文脈の中にあったのかを、誰かが書き換えようとした」
「なぜそんなことを……」
「証拠を潰すためではなく、証拠の価値を下げるため、でしょう」
夜依は続けた。「改竄すれば痕跡が残る。だから消さない。ただ周囲を汚染する。あなたの記憶を使ってあなたの告発を無効化しようとした。とても周到なやり方です」
鳥羽の唇が震えた。怒りなのか、恐怖なのか、それとも両方なのか。
「それでも……戦えますか」
夜依は一秒も迷わなかった。
「戦い方を変えるだけです」
*
夜、川沿いを歩きながら、夜依は一人で考えた。
蓮華メモリクス。その名前を、以前どこかで聞いた気がした。あるいは見たのか。燈市を訪れる前に壱が調べていた企業リストの中に、それがあったような——記憶は確かではなかった。皮肉だと思う。記憶を扱う仕事をしているのに、自分自身の記憶をこれほど信用できない。
川面に灯篭が流れていく。
ひとつひとつに、誰かのデータが宿っている。誰かの夢か、誰かの痛みか、あるいは誰かが消したいと思っていたのに消せなかった何かか。
「夜依さん」
背後から声がした。振り返ると、千重が一人で立っていた。コートを着て、手に色鉛筆を一本だけ持っている。
「こんなところで何をしているの」
「つけてきた。ひとりで出て行くから、心配で」
「……鍵は」
「壱さんに預けてきた」
千重は夜依の隣に並び、川面を見た。灯篭の光が彼女の横顔を照らす。記憶を持たない少女が、無数の記憶の光を眺めている。
「今日の依頼人の人、かわいそうだった」千重が言った。「自分の目で見たものが本当かどうか、自分でわからないなんて」
夜依は答えなかった。
「でも夜依さんは信じてたよね、あの人のこと」
「……証拠が改竄されていても、その人が嘘をついているとは限らない」
「うん」千重は静かに頷いた。「嘘と改竄は、違うもんね」
その一言が、夜依の胸の中で何かを打った。
嘘と改竄は、違う。
嘘は人間がつく。改竄は、人間が人間に施す。鳥羽は嘘をついていない。しかし彼女の記憶は改竄されている。その二つは矛盾しない——それを法廷で証明することが、夜依のこれからの仕事だ。
「千重」
「なに」
「蓮華メモリクスという名前を、聞いたことはある?」
千重は少し考えた。長い睫毛が一度伏せられ、それから上がった。
「……ある、気がする。でも、どこで聞いたのか、わからない」
わからない、と彼女は言う。記憶がないから、ではなく——思い出せない、という意味で。
夜依はそれ以上追わなかった。川風が二人の髪を揺らし、灯篭がひとつ、水の流れに乗って遠ざかっていく。
蓮華メモリクスと蝶番。政界と記憶改竄産業。そしてこの都市の創設から続く、ずっと古い何か。
糸は、少しずつ太くなっている。
夜依はコートの内ポケットに手を入れ、かつて恩師から渡された一枚の古い写真を指先で確かめた。灯京が建設されたばかりのころの街並みと、そこに並ぶ数人の人影——その中の一人の顔が、今日初めて、別の誰かに似て見えた。
次に糸村百合江を訪ねるとき、夜依は聞かなければならないことが増えていた。