川面に浮かぶ灯篭が、ゆっくりと流れていった。
事務所の窓から見える灯京の夜は、いつもこうして光とともに過ぎていく。鳥羽の件で証拠の組み直しに費やした長い夜が終わり、夜依と千重が先に眠りについた後も、壱はひとり、卓上の端末に向かっていた。解析ログの青白い光が彼の横顔を照らし、その輪郭を研ぎ澄まされたガラス細工のように見せていた。
気配に気づいたのは、廊下の板が鳴ったからだ。
「眠れないの」
千重が、洗いざらしの部屋着のままそこに立っていた。眠そうな目をしているくせに、足だけは無駄に素早く、するりと壱の隣の椅子に収まる。返事を待たずに座るのが彼女の流儀だった。
「別に」と壱は言った。「眠る必要を感じない夜がある」
「私は感じすぎるくらい感じる。夢がうるさくて」
千重はそう言って、ぼんやりと窓の外を眺めた。灯篭の光が彼女の瞳の中でゆらゆらと揺れる。彼女の夢がどんなものか、壱には想像できなかった。記憶を持たない人間が何を夢に見るのか、それは彼の専門知識の外側にある問いだった。
「ねえ、壱」千重が言った。「あなたって、夢見る?」
壱は少し考えてから、端末の電源を落とした。画面が消え、室内は窓の外の光だけになった。
「見る」と彼は答えた。「ただし、自分の夢じゃない」
千重が首を傾ける。
「他人の記憶を処理しすぎると、それが混ざって出てくる。見知らぬ人間の誕生日、誰かの母親の声、火事の匂い。ぜんぶ他人のものなのに、目が覚めた瞬間だけは自分の記憶みたいな顔をしている」
千重は何も言わなかった。ただ壱を見ていた。その視線が珍しく静かだったから、壱は続けた。
「俺はもともと、国の研究所にいた」
言葉にするのは初めてだった。夜依にすら、断片しか話していない。
「正式名称は国家記憶技術研究所。通称MRLと呼ばれていた。灯京が記憶証拠制度を本格導入する前の時代に、法廷用の記憶解析技術の標準化をやっていた機関だ。俺は二十二の時に採用された」
「優秀だったんだ」
「優秀というより、感情記憶の処理に耐性があった。他人の強烈な感情を含む記憶データを長時間扱っても、自分が影響を受けにくいという検査結果が出た。だから雇われた。道具として適していたから、ということだ」
千重は少しだけ眉を寄せたが、何も言わなかった。壱はそれをありがたいと思った。同情の言葉が来ると思っていたからだ。
「最初の二年は純粋な解析業務だった。法廷に提出される記憶ホログラムの品質検定、改竄の有無の判定、記録ノイズの除去。それ自体は問題なかった。問題は三年目に始まった」
壱は窓の外に目をやった。灯篭がひとつ、橋桁に引っかかってゆっくりと回転している。
「上から新しいプロジェクトに回された。記憶の封印技術の開発だ」
封印、と千重が小さく繰り返した。
「記憶を消すのとは違う。消去は痕跡が残る。訓練を積んだ解析者には消された形跡が読める。だから当時の研究者たちが目指したのは、記憶を存在させたまま、本人がアクセスできない状態にする技術だった。引き出しの中に鍵をかけるのと同じ原理だが、その引き出しが脳神経の奥深くにある場合、鍵の設計は途方もなく精緻でなければならない」
「それを、あなたが作ったの」
壱は少し間を置いた。
「俺が作った。少なくとも、完成させるための最後のピースを設計したのは俺だった。封印キーの個別化と、記憶層の多重ロック。その二つがあって初めて技術は実用レベルに達した。所長は俺を褒めた。国防上の意義があると言った。保護対象の証人や、過激派に拉致された場合の機密漏洩防止に使う、と」
「でも」と千重は静かに言った。
「でも」と壱も繰り返した。「そんな高潔な用途にだけ使われるわけがなかった。俺はそれをわかっていて、完成させた。当時の俺にはわからないふりをする理由があったし、感情が摩耗していて、倫理的な恐怖というものをまともに感じられなかった。怖いという感覚が薄かった。それだけだ」
川から風が吹いて、窓枠がかすかに鳴った。千重は膝の上で両手を組んでいた。
「研究所を辞めたのはその翌年だ。プロジェクトが一段落した後、技術が実際に使用されているという噂が内部に流れた。証人保護でも国防でもなく、もっと——不都合な記憶を持つ人間に対して使われているという話が。俺は証拠を押さえようとして、失敗して、解雇された」
「追い出されたんだ」
「穏便な形を取っていたが、そういうことだ」
壱は両手を卓上に平たく置いた。何かを押さえるような、あるいは確かめるような仕草だった。
「今でも後悔している」
その言葉を聞いた千重が、わずかに目を見開いた。壱が後悔という言葉を使うのを、彼女は初めて聞いた気がした。
「後悔というのは感情の一種だろう」と壱は続けた。「俺の感情は大半が摩耗している。それでも、あの技術を完成させたことだけは——何か、ここに残っている」
彼は右手を胸に当てた。説明するのが難しいものに触れようとするような、ぎこちない動作だった。
「重い、と言えばいいのか。言葉が正確じゃないのはわかっている。ただ、あの技術が誰かに使われるたびに、その重さが増している気がする。俺の感覚がほとんど死んでいるのに、それだけはまだ死んでいない」
千重は長いこと黙っていた。窓の外で灯篭がまた一つ、橋を越えて流れていった。
「壱」と彼女はようやく言った。「それが後悔じゃなかったら、なんだっていうの」
壱は答えなかった。でも、千重の言葉が空気の中に溶けていくのを、彼はちゃんと感じていた。響く、と彼が呼んでいるあの感覚だ。夜依の言葉と同じように、千重の言葉も時々彼の中に着地する。どちらも彼が意図しないタイミングで、それをやってくる。
「夜依さんには話したの」
「断片だけ」
「なんで私には全部話したの」
壱は少し考えた。
「あなたが聞いたから」
「それだけ?」
「それだけで十分じゃないか」
千重は少し唇を尖らせたが、すぐにその表情をしまって、また窓の外を見た。
「封印された記憶って、絶対に開かないの」と彼女は言った。何でもない質問のように、ごく自然に。
壱の視線が、ほんの一瞬だけ千重の横顔で止まった。
「鍵がなければ、開かない」
「鍵って、どこにあるの」
「設計者が持っている」
千重は「そう」と短く言って、あくびをした。それ以上は何も聞かなかった。壱も何も言わなかった。ただ二人で、灯篭が流れていくのを見ていた。
その夜、壱は初めて自分の夢を見た気がした。目が覚めた時には何も残っていなかったが、眠りの縁のどこかで、鍵のかかった引き出しが何十も並んだ部屋に立っていた。どの引き出しにも鍵穴があって、そのどれかに自分が作った鍵が合うことを、夢の中の自分は知っていた。
でも彼はどの引き出しも開けなかった。ただそこに立って、川の音を聞いていた。
翌朝、千重は何事もなかったように朝食を食べていた。夜依が鳥羽の件の書類を広げ、壱に解析データの確認を求めた。壱はいつも通り端末に向かい、いつも通り数字を読んだ。
ただ、千重が「おはよう」と言った時、壱はほんのわずか遅れて「ああ」と答えた。それだけのことだったが、夜依は珍しそうに壱の横顔を見た。何かを言いかけて、やめた。
言葉にならないものが、その朝の事務所にはあった。灯京の川はいつも通り光を流し続けていたが、壱の胸の中の重さは、昨夜より少しだけ形を変えていた。軽くなったわけではない。ただ、それがどういう形をしているのか、少しだけ輪郭が見えた気がした。
鍵は、まだ壱の手の中にある。