百合江が倒れた夜から、三日が経った。
事務所の窓から見える川には、今夜も灯篭型データ端末が漂っている。水面に映るその光は、本物の炎ではなく記憶の断片なのだと夜依は知っていた。誰かが流し、誰かが拾い、誰かが読む——灯京とはそういう都市だ。真実と嘘が同じ光の色をして、同じ川を流れていく。
百合江の容態は安定しているという。だが彼女はまだ話せる状態ではなく、古い灯篭のかけらは夜依の机の引き出しの中で、息を潜めたままだった。
「夜依さん」
稲森壱が事務所のドアを押し開けたのは、夜依がちょうどそのかけらを取り出して眺めていたときだった。手のひらに乗せると、かすかに温かい。いや、そう感じるだけかもしれない。
「依頼人が来ています。少し、特殊な案件で」
壱の声には珍しく、僅かな興奮の色があった。感情が希薄になった彼がそういう声を出すときは、たいてい技術的に興味深い何かを目にしたときだ。夜依はかけらを引き出しに戻し、椅子から立ち上がった。
*
依頼人は四十代の女性で、名を朝霧静江といった。喪服に近い暗い色のワンピースを着ており、目の下に薄く隈が滲んでいる。彼女の隣には若い男——二十代後半と見える、これも暗い表情の——が座っていた。
「弟の諒太です」と静江は言った。「父が三週間前に亡くなりました。急性心不全で、享年六十七でした」
「ご愁傷様です」
夜依は簡潔に応じ、静江が卓上に置いた書類へ視線を落とした。遺産相続に関する書類と、一枚の提訴状。
「問題は、遺言書ではなく記憶ホログラムなんです」
静江の声が、微かに震えた。
「父には後妻がいます。再婚して五年になります。その後妻——橘 恵子という女性——が家庭裁判所に記憶ホログラムを証拠提出しました。父が生前に後妻へ全財産を相続させると意思表示している場面が記録されているとして」
「記憶ホログラムの提出自体は合法です。遺言書に準じる効力がある」
「ええ」静江は頷いた。「でも壱さんに相談したところ、そのホログラムに奇妙な点があると」
夜依は壱を見た。壱は静かに口を開いた。
「記憶ホログラムには必ずタイムスタンプが入ります。記録された日時が神経信号と同期して刻印される。これは改竄が最も難しい部分で、だから法廷でも証拠として採用される」
「それで?」
「橘恵子が提出したホログラムのタイムスタンプは、朝霧誠一郎氏が死亡した当日の夜十一時十四分になっています」
夜依は一瞬、言葉を失った。
「死亡推定時刻は同日の午後七時から八時の間です」と壱は続けた。「つまりそのホログラムは、朝霧氏が死んでから三時間以上が経過した時点に記録された記憶ということになる」
沈黙が落ちた。
事務所の窓の外で、灯篭が一つ、川面をゆっくりと流れていった。
「死者の記憶」と夜依は呟いた。
*
依頼を受けた翌日、夜依と壱は家庭裁判所の記録閲覧室でホログラムのデータと向き合った。証拠開示の手続きを経て入手した正規のコピーを、壱が専用の解析端末に接続する。
「再生します」
空中に、光の粒が集まった。
老いた男の声が響く。穏やかで、少し掠れた声だ。朝霧誠一郎——生前の映像ではなく、あくまで記憶の再生だから、映像に輪郭はなく、光と影と感情の揺らぎで構成されている。
『恵子、全部お前に渡す。子供たちへの気持ちは別だが、財産はお前が管理しろ。それが俺の意思だ』
老人の記憶の中には、温かみがあった。本物の感情の質感がある。改竄された記憶は、どこかに均質すぎる滑らかさが出る——夜依はそれを何度も見てきた。しかしこれは、そうではない。
「感情波形は本物です」と壱が言った。「改竄の痕跡は、今のところ見えない」
「でもタイムスタンプは死後だ」
「ええ」
壱は端末を操作し、ホログラムの深部データを引き出した。記憶を記録する神経インターフェースは、通常は「今この瞬間」にしか機能しない。過去の記憶を呼び起こして記録することは技術的に可能だが、その場合タイムスタンプは「記録された時点」になる。だから通常、死後のタイムスタンプはあり得ない。
「ただ」と壱は言い、夜依の方を向いた。「一つだけ可能性があります」
夜依は黙って続きを待った。
「記憶の時限装置です」
その言葉が、静かに空気を変えた。
「どういうことか説明してくれ」
「神経インターフェースは、通常は随意的に起動します。本人が意識して記録する。でも理論上は——そして実際にはごく一部の専門家の間で試みられているんですが——特定のトリガーが来たときに自動的に記録を開始するよう、事前にセットしておくことができる」
「生きているうちに、死後の記録を仕込む」
「そうです」壱の目が、かすかに輝いた。「朝霧誠一郎氏が、自分の死を予期して、あるいは死という出来事そのものをトリガーに設定して——死の瞬間に蓄積されていた記憶の最後の一塊が、時計仕掛けで放出されるよう準備していた可能性がある」
夜依は立ち上がり、部屋の中を一歩、歩いた。
「それは——」
「前例がない技術ではありません。ただ法的にまだグレーゾーンで、裁判所が証拠として採用するかどうかの判断基準も確立していない。今回、橘恵子側の代理人がそれを知っていたかどうかは別として、このホログラムはおそらくそのメカニズムで記録された」
夜依の頭の中で、複数の問いが生まれ、絡み合い始めた。
朝霧誠一郎は、なぜ時限装置を使ったのか。後妻への意思表示を、なぜ生前に通常の方法で残さなかったのか。あるいは——これが本物の時限装置の記憶なら、なぜ後妻だけがそれを持っているのか。
「静江さんたちは、父親が時限装置の技術を使っていたことを知っていたか」
「知らなかったと言っています」
「後妻は?」
「知っていた、と言うかもしれない。というより——彼女が朝霧氏にセットさせた可能性も、排除できない」
それだ、と夜依は思った。
もし橘恵子が夫の神経インターフェースに時限装置を仕込んでいたとしたら、それは記憶の偽造ではない。感情波形は本物だ、内容も本物かもしれない。だが「いつ記録するか」を他者が操作しているなら、それは証拠として何点の信頼性を持つべきなのか。
「壱、朝霧誠一郎の主治医とインターフェースの整備記録を当たってくれ。過去一年以内に神経端末のメンテナンスをした技術者を探す。それと——」
夜依は一瞬、口を閉じた。
「時限装置の設定ができる技術者は、灯京に何人いる?」
壱は少し考えた。
「公認の技術者では、ほとんどいません。でも非公式の界隈なら——おそらく数十人単位で」
「カイロの名前は出てくるか」
沈黙があった。
「出てくる、かもしれません」
夜依は窓の外へ目をやった。昼間の川には灯篭が少ない。それでも数個、淡い光の端末が水面を漂っている。記憶を乗せて、どこかへ向かっている。
死者が死を待ちながら仕込んだ言葉が、決められた時刻に世界へ届く。
それは遺言なのか。それとも罠なのか。あるいは——愛なのか。
*
その夜、事務所に戻った夜依は千重が窓際に座っているのを見つけた。川を眺めながら膝を抱え、どこか遠いところを見ている目をしていた。
「千重」
「あ、おかえり」千重はすぐに笑った。その笑顔はいつも通り明るく、だからこそ夜依には時々、胸に小さな棘が刺さるような感覚がある。「なんか難しい顔してる」
「難しい事件を受けた」
「どんな?」
夜依は少し迷ってから、言った。
「死んだ人間が、死後に記憶を届けた話だ」
千重の顔から、笑みが薄れた。
ほんの一瞬だった。すぐに彼女は「へえ、すごいね」と言い、また窓の外へ目を戻した。でも夜依はその一瞬を見逃さなかった。
千重は記憶を持たない少女だ。生まれたように事務所に転がり込んできて、過去を持たず、それでも確かにここに存在している。
死者が時限装置で記憶を届けるなら。
記憶を持たない者は、その逆の何かなのかもしれない。
その考えが夜依の脳裏をよぎったとき、引き出しの奥の灯篭のかけらが、また微かに温かくなったような気がした。気のせいだと思いながら、夜依はそれを振り払えなかった。