その招待状は、午後の光の中に静かに届いた。

 差出人の名前を見た瞬間、夜依の指先が止まった。封筒の表面には「蒼川礼司」と、細く整った筆跡で記されていた。インクの色は深い紺で、まるで夜の川面を写し取ったかのようだった。

 稲森壱が肩越しに覗き込み、微かに眉を動かした。

「来ましたね」

 その三文字には感情の起伏が薄く、まるで天気予報を確認するような平坦さがあった。だが夜依には分かった。壱が何かを感じているとき、言葉はむしろ削ぎ落とされる。

「行くと思います?」と千重が問うた。テーブルの端で湯飲みを両手で包んでいた彼女は、いつもより声が低かった。陽気を装おうとして、装えていない。その不器用な心配が夜依の胸をかすめた。

「行くわ」と夜依は言った。躊躇いなく。「会わずにいられる相手じゃない」

 指定された店は、灯京の旧市街にある料亭だった。高層ビルの谷間に、時代錯誤なほどの静けさを保って建っている。暖簾をくぐると、灯籠型データ端末の青白い光が届かない世界があった。木の床、畳の匂い、廊下を流れる微かな水音。ここだけが、灯京の外にあるかのようだった。

 仲居に案内された奥座敷で、男は既に座っていた。

 蒼川礼司は、想像より若く見えた。四十代後半のはずだが、佇まいには余分なものが何もない。濃紺のスーツに白いシャツ、飾り気のないネクタイ。整った顔立ちに表情は穏やかで、夜依が部屋に入ると、静かに立ち上がった。

「瀬戸先生。お越しいただけてよかった」

 声は低く、落ち着いていた。怒りも媚びもない。ただ、そこにある。

 夜依は頭を下げることなく向かいに座った。対峙という言葉が脳裏をよぎったが、男の態度はそれを少しも刺激しなかった。まるで旧友と食事をするかのように、蒼川は膝の上で手を組んだ。

「まずは食事を。話は後で構いません」

 運ばれてきた料理は、静かに美しかった。秋の終わりを映した器、透き通る出汁の椀、焦げ目のついた魚の白身。夜依はほとんど箸を動かさないまま、男を観察した。蒼川は丁寧に食べた。所作に乱れがなく、しかし気取りもなかった。本物の品性とはこういうものかと、夜依は半ば憎々しく思った。

「カイロのことを調べているそうですね」

 蒼川が先に口を開いたのは、椀を下げてもらった後だった。責める響きは微塵もなかった。

「そうよ」と夜依は答えた。「それが何か?」

「警告ではありません」と蒼川は言った。「ただ、あなたが何を見ようとしているか、私には分かる気がして」

 視線が交わった。夜依は相手の目を探った。嘲りがあれば楽だった。侮蔑があれば、それを足場にして立っていられた。しかし蒼川の目には、奇妙なほど誠実なものがあった。確信の静けさ、とでも言えばよいか。

「あなたの才能を、私は昔から見ていました」と蒼川は続けた。「無敗の弁護士。記憶ホログラムが証拠として認められ始めた当初、最もそれに精通し、最も鋭くその矛盾を突いた。あなたがいなければ、この都市の法廷は技術の暴走に飲まれていたかもしれない」

「褒め言葉のつもり?」

「事実です」と彼は言った。「だからこそ、冤罪は惜しかった」

 その言葉が落ちた瞬間、座敷の空気が変わった。夜依の奥歯に力が入った。

「惜しかった」と彼女は繰り返した。「それだけ?」

「違います」と蒼川は静かに言い直した。「痛恨だった。しかし——あの記憶改竄がなければ、七人の命は救えなかった」

 夜依は黙った。

「あの被告が無罪になれば、彼は再び動いていた。証拠はあった。ただし、法廷で使える形ではなかった。記憶ホログラムを——少しだけ、整合性を持たせた。事実の骨格は変えていない。ただ、提出できる形に直しただけだ」

「それが記憶改竄よ」と夜依は言った。声は低く、しかし震えていなかった。

「そうです」と蒼川は認めた。少しも目を逸らさずに。「私はそれを否定しない。法の形式が真実を殺すとき、形式を曲げることで真実を守る。それが私の選択だった」

 夜依は箸を置いた。

「あなたは今、法の外に立って法を守っていると言っている」

「そう聞こえますか」

「そう聞こえるわ」

「かもしれない」と蒼川は言い、少し考えるような間を置いた。「しかし私は法を捨てていない。法廷を、正義の最後の砦だと信じているからこそ、その砦を守るために汚れることを選んだ。あなたは——汚れることを恐れて、砦を失った」

 その言葉が刃のように刺さったのは、それが的外れではなかったからだ。夜依は自分の内側で何かが揺れるのを感じた。怒りではなかった。もっと苦い何かだった。

「私が冤罪を負ったことで、何かが守られた?」と彼女は問うた。

「あなたが法廷から消えることで、私の計画は一つ障害を失った」と蒼川は率直に言った。「美化はしません。あなたは利用された。だが——生き残った。そして今もここにいる」

 窓の外、細い路地の向こうに、灯籠型のデータ端末がひとつ、川面の上を漂っていた。青白い光が水に映り、揺れている。

 夜依は長い間、その光を見ていた。

 憎しみは確かにある。この男が自分の人生を一度壊したことへの、冷えた怒りは消えていない。しかし、それと同時に——この男の言葉には、夜依が最も恐れていた問いが含まれていた。法の形式が真実を殺すとき、あなたはどうするか。夜依自身、その問いに完全な答えを持っていなかった。

「あなたは私に何を望んでいるの」と夜依は問うた。

「対話です」と蒼川は言った。「あなたの側から見えるものと、私の側から見えるものを、一度でも突き合わせたかった。それだけです」

 嘘とは思えなかった。それが最も不気味だった。

 蒼川は立ち上がり、着物の衿を整えるように軽く上着を正した。

「朝霧家の件、もう少し深く掘れば、カイロの上位に別の依頼主が見えてくるでしょう。ただ——その先は、あなたが思う以上に深い」

「脅し?」

「道標です」と彼は静かに言った。「あなたが辿り着くなら、正面から来てほしい。抜け道からではなく」

 それだけ言って、蒼川は頭を下げた。過不足なく、礼儀として。そして静かに部屋を出た。

 夜依はしばらく、ひとり座っていた。

 湯飲みの中のお茶が冷めていくのを感じながら、彼女は自分の手を見た。少しだけ、震えていた。怒りのためか、あるいは別の何かのためか、自分でも判然としなかった。

 この男を憎むことは、今もできる。

 しかし単純に憎むだけでは、もう足りない気がした。

 路地の灯籠が、川の上でゆっくりと流れていった。まるで死者への供養のように、静かに、静かに。

 夜依はようやく立ち上がり、暗い廊下を歩き出した。足音が木の床に響く。その音だけが、今の自分に確かなものとして残っていた。

 カイロの上位に、別の依頼主。

 蒼川が道標と呼んだその先に、千重の存在が繋がっているとしたら——。

 その考えが脳裏をよぎった瞬間、夜依の足が止まった。暖簾の手前、外の光が差し込む境目で、彼女は一度だけ目を閉じた。

 まだ、見えていないものがある。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

25

蒼川との初対話

朔間 灯子

2026-06-07

前の話
第25話 蒼川との初対話 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版