夜が明けきらない時刻に、千重は目を覚ました。

 事務所の奥に設えた簡易ベッドの上で、彼女はしばらく天井を見つめていた。灯京の夜空は完全な暗さを知らない。川沿いを漂う灯篭型データ端末の光が窓越しに揺れ、室内の壁にぼんやりとした光紋を描いている。その揺らめきを眺めながら、千重は夢の残滓を手の中に収めようとするように、両掌をそっと胸の上で重ねた。

 また、あの夢を見た。

 台所で水を飲んでいると、夜依が廊下に姿を現した。料亭での蒼川との密会から帰ってきた翌日、彼女はまだどこか遠くを見ているような目をしていた。

「眠れなかった?」

 千重が問うと、夜依は小さく首を横に振った。

「少し考えごとをしていた。あなたこそ、顔色が悪い」

「夢を見てたの。変な夢」

 夜依の眼差しが静かに鋭くなる。彼女の目はいつでも、言葉を聴く前から何かを先読みしようとしているような光を帯びていた。

「座って話して」と夜依は言った。命令ではなく、むしろ懇願に近い声音だった。

 二人はダイニングテーブルの向かい合わせに腰を落ち着けた。窓の外では灯篭がいくつか川の上を流れており、その橙色の光が水面を揺らしていた。

「毎晩見るの、同じやつ」と千重は言った。「川みたいなところを、光がたくさん流れていく。最初はひとつひとつ別々で、色もバラバラで——青とか、緑とか、紫とか——でも流れていくうちに、だんだん一か所に集まってくる」

「一か所に?」

「うん。川の先に、すごく大きな光の塊があって。そこに全部が吸い込まれていく。最後はひとつの、白くて眩しい光になる。それで目が覚める」

 千重は話しながら、コップの水面をそっと指先でなぞった。

「怖いって感じはないんだけど、起きたら胸の奥がじんわりする。悲しいわけでもない。でも、寂しくはある」

 夜依はしばらく黙っていた。

「壱に話してみて」と彼女は最終的に言った。「記憶の話を聴かせると、あの人は何かを見つける」

  *

 壱は朝食も摂らずに千重の夢の記述を聴いた。彼は何かに集中するとき、食事も眠りも必要なくなるような生き物に変わる。千重が語り終えると、彼は携帯端末に指を走らせながら、ひどく静かな声で言った。

「もう一度、最初から」

「え、聴いてなかった?」

「全部聴いてた。もう一度、細部まで」

 千重は繰り返した。今度は壱に促されながら、光の色の順番、集束する速さ、最後の白い光の「感触」のようなものまで言語化した。壱の指が端末の上を走るたびに、微かな電子音が鳴った。

「千重」と壱は言った。「夢の中で、光が集まる前に——何か音はするか」

「音?」千重は目を閉じた。「……水の音。川の音とは違う。もっと、内側から来るみたいな。血が流れる音みたいな感じ」

 壱の指が止まった。

「血が流れる音」と彼は繰り返した。声に感情はなかった。しかしその平坦さの奥に、夜依は何か薄い緊張の層が重なるのを感じた。

 壱は端末の画面を二人に向けた。そこには複雑なネットワーク図が表示されていた。無数のノードが線で繋がり、中央の一点に向かって収束する構造。各ノードは微細な色分けがされており、青、緑、紫——千重が夢で語った色と重なっていた。

「これは何?」と夜依が訊いた。

「国家記憶公共データベースのアーキテクチャ図。建国期の設計図の複製。俺が研究所にいたとき、一度だけ見せてもらった」

 千重はその図と自分の夢を見比べて、何も言わなかった。言えなかった、というほうが正確だったかもしれない。

「同じ、だね」と彼女は呟いた。

「構造的には、ほぼ一致している」

 壱の声はやはり平坦だった。しかし夜依は、その平坦さが今回は違う種類のものだと理解していた。感情が希薄なのではなく、感情を持て余して平静に見せている。長年彼を見てきた者にしかわからない、わずかな差異。

「つまり」と夜依はゆっくり言葉を選びながら言った。「千重の夢は、国家データベースの構造を映している」

「仮説に過ぎない。でも」壱は一度言葉を切った。「国家記憶データベースは、全市民の記憶情報を収集して単一の巨大記憶体として統合する仕組みを持っている。各個人の記憶は匿名化されたデータノードとして流れ込み、中央に集束する。千重が毎晩見ている夢の構造は、その動作プロセスと等しい」

「等しい、って……」千重は視線を自分の手のひらに落とした。「それって、私が毎晩、そのデータベースを見てるってこと?」

 壱は答えなかった。答えないことが、答えだった。

 夜依は窓の外を見た。川を流れる灯篭の光が、朝の淡い青の中でゆっくりと漂っていた。個々に揺れていたその光が、下流の橋のあたりで少し密集して見える。収束するように。

「千重」と夜依は言った。「怖い?」

「うーん」千重は首を傾けた。「怖いっていうより——わかった気がする、って感じ」

「何が」

「自分がどこかへ帰ろうとしてるんだって。毎晩あの夢を見るのは、たぶん、私の中の何かが呼ばれてるから」

 その言葉の重さを三人は黙ってしばらく引き受けた。

  *

 壱はその日の夜遅く、書斎代わりに使っている部屋で古いファイルを開いた。

 研究所にいた頃のバックアップデータ。削除を命じられたはずのものを、壱はある種の反射的な習慣として、どこかに残していた。記憶を扱う仕事に就いていると、「消えてしまうこと」への恐怖が職業病のように根付く。

 ファイルの中には、実験記録が眠っていた。

 プロジェクト名は「燈子計画」——灯京の「燈」と、子供の「子」。壱はそれを初めて見たときから、奇妙な引っかかりを覚えていたが、記憶に触れすぎて感情が磨耗していたあの頃は、それを問い直す力がなかった。

 記録には「記憶の器としての適性試験」という項目があった。読み進めるうちに、壱の指が微かに震えた。

 実験体は複数想定されていた。しかし「完全な状態で起動する条件」を満たした個体は——記録によれば——一体のみだった。

 壱はファイルを閉じた。

 開いた。

 また閉じた。

 天井を仰いで、長い息を吐く。感情が、久しぶりに重くなった。彼が感情の重さを意識するのは、稀なことだった。夜依の言葉を聴いたとき以外では、ほとんどなかった。

 廊下の奥から、千重の寝息が微かに聴こえる気がした。陽気で嘘が下手で、自分の存在の意味を知らずに笑っている少女。

 あの夢を、彼女は毎晩見ている。

 壱は端末を閉じ、暗い部屋の中でしばらく動かなかった。自分がその実験に関わっていたことを、壱はまだ正確には思い出せていない。だが、思い出しかけていた。記憶が戻ってくるときの感触——靄が少しずつ、形を持ち始める感覚——を壱は誰よりもよく知っていた。

 千重が見ている夢の光の束が、壱の脳裏で静かに収束し始めた。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

26

千重が見た夢

朔間 灯子

2026-06-08

前の話
第26話 千重が見た夢 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版