灯京の夜明けは、いつも川から始まる。
無数の灯篭型データ端末が水面に反射して、橙と蒼の光が溶け合う時間。その美しさを夜依はかつて好んでいたが、今朝は窓の外に目を向けることさえしなかった。
壱からの通知が、未明の三時に届いていた。
*燈市が落ちた。*
たった六文字。しかしその重さは、砂嚢のように胸の上に乗り続けた。
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燈市は、灯京の第七区画と第八区画の境界線上に広がる地下市場だ。正式な住所を持たず、古い排水路と廃棄されたデータ配管の網の目に沿って、十年以上かけて有機的に育った闇の流通路である。記憶データの売買、改竄済み記憶の査定、正規ルートに乗せられない情報の仲介——そういった「灰色の取引」が、灯京の表社会と地続きに息をしていた場所だ。
夜依がカイロと接触したのは、ちょうど一週間前のことだった。
カイロ——本名不明の情報屋。壱の古い繋がりを辿って紹介を受けた人物で、「白鷺」の末端構造について断片的な情報を持っているとされていた。燈市の奥深く、染料の匂いが染みついた小部屋で、夜依はカイロの饒舌を三時間聞き続けた。証拠になりうる情報はまだ何も得られていなかったが、糸口は確かに掴もうとしていた。
それが、今朝の夜明けと共に消えた。
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事務所に着くと、壱がすでに机の前に座っていた。いつもは整然としているその机の上に、今朝は複数の投影ウィンドウが乱立していた。逮捕者リスト、燈市の区画図、第七区画の監視カメラ記録——どれも、本来なら彼が手を伸ばすような資料ではない。
「何人だ」と夜依は訊いた。コートを脱ぎながら、答えを聞く前から腹を括っていた。
「十七名が身柄を押さえられました」壱は画面から目を離さずに答えた。「そのうち三人が私の知る者です。ミヤ、ツバキ、それからオガ」
夜依は壱の横顔を見た。
稲森壱という人間は、普段ほとんど感情を顔に出さない。他人の記憶に長く触れすぎた反動か、あるいは自衛本能の成れの果てか——怒りも悲しみも、彼においては静水のような平坦さの向こうに沈んでいる。夜依がそれを美しいとも哀れとも感じながら付き合ってきた三年間だった。
だが今朝の壱は、違った。
顎のラインが、かすかに強張っていた。
「カイロは」
「行方不明です。燈市の摘発が始まる二時間前に、接触経路が全て沈黙しました。逃げたのか、捕まったのか——」壱はそこで一度、言葉を切った。「まだ分かりません」
夜依は椅子を引いて腰を下ろし、投影された逮捕者リストを眺めた。十七名の名前が、番号付きで整列している。こういうリストをこれまでに何度見てきたか、もう数えていない。しかし壱の知る者の名がそこに混じっているという事実は、数字の問題ではなかった。
「ミヤたちは、私との接触について何か知っていましたか」
「直接は知りません。でも」壱は短く間を置いた。「燈市に足を踏み入れたこと自体は、知っていた」
夜依は頷いた。それで十分だった。
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百合江が事務所に現れたのは、午前十時を回った頃だった。
老齢の元裁判官は杖をつきながら階段を上がってくる音がいつも先触れになるが、今朝はその音が普段より速かった。扉を開けた彼女の顔に、夜依はかつて見たことのない緊張の色を読み取った。
「テレビを見ましたか」百合江は言いながら、自分で投影端末を操作して公共放送のチャンネルを呼び出した。
画面の中で、蒼川礼司が記者会見を開いていた。
灯京最高検察官の定位置——大理石の演台の前で、彼はいつもと変わらない静謐な顔をしている。しかし今朝の蒼川には、わずかに勝者の余韻があった。言葉ではなく、姿勢の中に。
「——灯京の司法秩序を歪める地下記憶市場の一斉摘発は、本日未明より実施いたしました。燈市と称される非合法取引区域において、延べ十七名を証拠隠滅の恐れがある状態で確保。これは、先週発表した記憶改竄対策強化措置の第一段階であり——」
夜依はそこで百合江に視線を向けた。
「先週、私たちが燈市に入ったのは水曜日の夜でした」
「わかっています」百合江は静かに言った。「蒼川は、あなたたちを追っています。おそらく、蔵人の件が刑事移送されると同時に」
壱が初めて椅子から立ち上がった。
その動作は静かだったが、夜依には分かった——壱の中の何かが、今、動いている。
「百合江さん」壱は言った。声のトーンは平静を保っていた。しかしその平静さが、いつもと質が違った。「ミヤたちは、記憶改竄とは無縁の人間です。燈市で小さな情報を売り買いしていただけで、白鷺にも白鷺の顧客にも関係がない」
「分かっています」
「彼らが捕まったのは」壱は続けた。「私が燈市に足を踏み入れたからです」
百合江は答えなかった。答えないことが、答えだった。
夜依は立ち上がり、壱の隣に並んだ。
「壱」
「怒っているわけじゃないです」壱は言った。しかし夜依には、それが嘘だと分かった——壱が嘘をついているのではない。壱自身が、自分の中に生まれた感情の正体をまだ確認できていないのだ。「ただ」
そこで壱は言葉を探すように、一瞬、目を伏せた。
「ミヤは、私が技術者を辞めた時、最初に声をかけてくれた人間です」
夜依は何も言わなかった。
壱が誰かについてそういう言い方をするのを、夜依は初めて聞いた。他人の記憶に触れすぎて自分の感情を摩耗させてきた男が、記憶ではなく言葉で、誰かの輪郭を守ろうとしている。
―
その午後、夜依は一人で第七区画に向かった。
燈市の摘発から六時間が経過した路地は、驚くほど静かだった。規制線が張られているわけでもない。ただ人がいない。商いの気配が消えた場所が持つ種類の静けさが、廃配管の隙間を吹き抜ける風と混ざっていた。
燈市の入口として機能していた骨董店の軒先に、夜依は立った。シャッターは下りていた。表面に、誰かが素早くスプレーで書いた文字が残っていた。
*見ている。*
それだけ。
夜依はその文字を、しばらく見つめた。蒼川への怒りではなく——それはとうの昔に通り過ぎた感情だ——もっと冷たい確信が、腹の底に降りてきた。
蒼川は、私たちが何かに近づいていることを知っている。
だから、周囲を刈り取っている。
白鷺の告発という刑事案件が動き始めた。百合江が灯京創設期の真実を語ろうとし始めた。千重という「記憶の器」の封印が、少しずつ緩んでいる——蒼川がそのどれかを、あるいは全てを感知しているとしたら。
摘発は警告だ。
燈市を潰したのは、私たちの退路を断つためだ。
―
夜、事務所に戻ると、千重が台所でお湯を沸かしていた。
この少女はいつも、誰かが疲弊して戻ってくる前に、何かを用意している。記憶を持たないはずの人間が、なぜそういう機微を持つのか、夜依にはまだ説明できない。
「壱さんは?」夜依は訊いた。
「さっき、一人で出て行きました」千重は振り返った。その顔に、いつもの軽やかさはなかった。「どこへ行くかは言わなかったけど——」少し間を置いて、「怒ってた」
夜依はコートを椅子に掛けた。
「そうか」
「夜依さん」千重は湯呑みを二つ、机に置いた。「蒼川って人、夜依さんのことをずっと見てたんですよね。昔から」
「ああ」
「なんで」千重は真っ直ぐに訊いた。記憶を持たない人間の問いは、しばしばこういう核心の形をとる。「夜依さんが、何かを知っているから?」
夜依は湯呑みを手に取った。
「私が、何かに気づこうとしているから」
千重はその答えをしばらく転がすように、黙っていた。それから、ふと何かを思い出したような顔をした——否、思い出すはずのない記憶が、水面に波紋を作るような顔を。
「夜依さん」千重は言った。「私、最近、夢を見るんです」
「夢を?」
「真っ暗な場所で、たくさんの灯りが流れていく夢。灯篭みたいな。でもその灯りの中に、名前が書いてあって——知らない名前なのに、読めるんです。ぜんぶ」
夜依の手が、静止した。
「どんな名前だ」
「灯京の、最初の人たちの名前みたい」千重は言った。陽気な声の端に、本人も気づいていない恐怖の影があった。「建設に関わった人たちの。でも、今はもう誰もそんな人たちのことを覚えていない——夢の中でそう思うんです。なんでかな」
夜依は千重を見た。
百合江が語ると言っていた。灯京創設期の真実。全市民の記憶が建国時に改竄されていたという、都市の原罪。
その記憶を、この少女は夢の中で見ている。
封印は、もう解け始めている。
夜依はそっと湯呑みを置き、窓の外に視線を移した。川面に流れる灯篭型端末の光が、今夜はどこか葬列に似て見えた。失われた十七人分の日常と、行方の知れないカイロと、壱が口にしなかった怒りと——それらが全部、同じ水の上を流れていくような気がした。
いつか来ると分かっていた夜が、ここまで近づいてきている。
夜依は唇を結んだまま、その光をしばらく見ていた。