川の匂いがした。

 夜依が目を覚ますと、事務所の窓から見える灯京の空はまだ曖昧な藍色で、どこかで万灯流しの灯篭端末が一基、風に押されて窓縁をよぎった。橙の光が室内をなめるように横切り、また闇へ溶けた。

 昨夜から百合江の部屋に灯りが点いている。眠れないのか、それとも眠る気がないのか。夜依はソファから身を起こし、インスタントの茶を淹れながら廊下の向こうに意識を向けた。壱は千重の様子を見に行ったまま戻っていない。この家には、それぞれが別の重さを抱えて、ただ朝を待っている人間が三人いた。

 ノックをしたのは、湯呑を持ったままの夜依だった。

「起きてるわよ」

 返事は予想より明瞭だった。扉を開けると、百合江は窓辺の椅子に座り、膝の上に古い綴じ帳を広げていた。表紙は褪せた紺色で、金の押し文字がほとんど剥落していたが、夜依には読めた。「灯京司法府 創設審理記録」。

「体は」

「こんな老骨、寝れば治る」百合江はそう言ったが、頬の落ちた顔には昨日よりも別の翳が差していた。「あなたが来るのを待っていたの。そろそろ話さなければならないと思っていたから」

 夜依は綴じ帳から目を離せなかった。

「壱の知人が十七人、連行された」

「聞いたわ」

「蒼川は警告として使った。次は私たちに手が届く距離まで来るかもしれない」

「だから話す、ということね」

 百合江は綴じ帳をゆっくりと閉じた。その動作には、長年しまい込んでいたものを手放す前の、最後の逡巡が滲んでいた。

「私が若かった頃、灯京はまだ都市として完成していなかった。あなたが生まれる前の話よ」

 夜依は床に置いた湯呑の横に腰を下ろし、膝を抱えて耳を傾けた。

「この都市の基礎を作ったのは七人の創設者たちだった。都市計画家、技術者、資本家、そして法学者——彼らが設計したのは都市の骨格だけではなく、司法の形そのものだった。記憶をホログラムとして法廷に提出できる技術が実用化された最初期、誰もがその可能性に熱狂していた。記憶は嘘をつかない。ならば記憶こそが完全な証拠になると」

 風が窓を鳴らした。灯篭の橙がまた一基、川の方へ流れていく。

「私は当時三十歳そこそこの、まだ駆け出しの裁判官だった。創設審理というのは、灯京の自治法典を正式に確定させるための象徴的な裁判で、七人の創設者たちへの権限委任を法的に追認するものだった。私はその裁判体の末席に座ることになった。若手枠、という名の飾りよ」

 百合江の声は静かだった。怒りでも悲しみでもなく、ただ長い時間をかけて磨耗した質感の、事実だけを語る声。

「審理の前夜、主席裁判官の部屋に呼ばれた。お茶を一杯どうぞと言われて、私は飲んだ。それだけのことだったのよ」

 夜依の指先が冷えた。

「翌朝、法廷に立った私の記憶は改竄されていた。自分ではわからなかった。ただ、審理の途中に奇妙な感覚があった——証拠として提出された七人の記憶ホログラムを見ているとき、映像と自分の認識の間に、薄紙一枚分の剥離があった。記憶を読む仕事を長くしていると、他人の記憶と自分の感覚のずれに敏感になる。でもそのときは、まさか自分が操作されているとは思わなかった。判決は全会一致で確定した。創設者たちへの権限委任は法的に正当化された。灯京の司法は、その瞬間に産声を上げた」

 夜依は呼吸を整えるために、意識してゆっくり空気を吸った。

「改竄に気づいたのはいつ」

「三年後。自分の別の記憶を検証する必要があって、技術者に記憶走査を頼んだとき、走査士が首を傾げた。創設審理前夜の記憶に不自然なセグメント断絶がある、と。私はその夜から七年かけて、断絶の前後を手繰り寄せた」

「何があったの。前夜の、本当の記憶には」

 百合江は少し間を置いた。

「主席裁判官から、審理を否決するよう求められていた。創設者のひとりが証拠記憶を偽造していた——七人の合意の記憶は、実際には一部が架空のものだった。法典確定の根拠そのものが虚偽だった。私はそれを知っていた。だから否決しようとしていた。でも朝になったら、私はその事実ごと忘れていた」

 沈黙が部屋を満たした。川の音だけが遠く、低く、続いていた。

「その主席裁判官は」

「とっくに死んでいるわ。創設者のほとんどもそう。でも制度は生きている。法典は生きている。そして——」百合江は目を細めた。「蒼川礼司は、その法典を信奉して司法のトップに立っている」

「彼は知っているの」

「どこまでかは分からない。でも彼が拠り所にしている法の正義は、最初の一手から嘘の上に建っているの。創設の判決を改竄によって確定させた、その事実の上に」

 夜依は立ち上がれなかった。灯京の全てが、この部屋の一言で形を変えていくような感覚があった。自分が育ち、学び、弁護士として立った法廷の床が、どこかで腐食していたという感覚。

「あなたが証言することはできなかったの」

「誰に」百合江の問い返しは静かだった。「主席裁判官は記憶を持っていかれた私を証人にはできない。改竄の痕跡を証明しようとすれば、自分が操作されたことを認めることになる。当時の司法の中でそれを正面から問える場所は、どこにもなかった」

「だから黙ってきた」

「黙ってきた。ただ——一つだけ、できることをした」

 百合江が綴じ帳をもう一度広げた。ページの間に、古びた薄い媒体が一枚挟まっていた。データクリスタルの旧規格。夜依が生まれる前に使われていた記録形式。

「改竄される前の記憶の断片を、私は自分の手で取り出して、ここに保存した。走査士に頼んでではなく、自分で。それがどれほど不完全でも、これだけが私の本当の記憶の欠片」

 夜依は息を呑んだ。

「それが、証拠になる」

「なるかもしれない。あるいは、なり得る形に育てれば」百合江は媒体を綴じ帳に戻し、夜依の目を真っ直ぐに見た。「私がずっとあなたに事件の核心を見せ続けてきたのは、あなたが私の言葉ではなく、あなた自身の推論でここに辿り着くことを待っていたから。押し付けた真実は、法廷では使えない。あなた自身が掴んだ真実でなければ」

 夜依は老婆の顔を見つめた。三十年以上、この人はこれを抱えて生きてきた。

「万灯流しは」

 問いは自然に口から出た。百合江がわずかに目を細めた。

「この都市が始まって最初の年に始まった儀式よ。灯篭を流して故人を悼む、と人々は言う。でも本当は違う。創設者のひとりが密かに始めたのよ——自分たちの嘘を流すために。償いの形として、灯を水に流すことを選んだ」

 川面の光が、夜依の脳裏で揺れた。

「だから灯篭は、悼みの器でもあり」

「罪の器でもある」百合江は言い切った。「この都市に生きる者が知らないまま、毎年流し続けているものの正体を、あなたはもう知ってしまった」

 廊下から足音がした。壱と千重が戻ってきたのだろう。夜依はゆっくりと立ち上がり、手の中の湯呑がとっくに冷めていることに気づいた。

「百合江さん」

「なに」

「私は、この都市を訴える」

 老婆は笑わなかった。ただ、長い沈黙の後、静かに頷いた。その瞼の裏に、三十年前の法廷の光が揺れているような気がした。

 廊下に出ると、千重が部屋の前に立っていた。夜依の顔を見て、何かを察したように口を開く。

「夜依さん、あの——また夢を見たんです。今度は声が聞こえて。名前を、呼ばれた気がして」

 千重の目は不安と、何か別のもの——目覚めかけた記憶の輝きを帯びていた。壱が無言で夜依を見る。その顔には、珍しく感情の名前がついていた。

 焦燥、だと夜依は思った。

「名前は」

「分からないんです。でも——灯京、って、聞こえた」

 川が、また鳴った。

万灯流しと、嘘つきたちの法廷

29

百合江の過去

朔間 灯子

2026-06-11

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第29話 百合江の過去 - 万灯流しと、嘘つきたちの法廷 | 福神漬出版