灯京の朝は光から始まらない。
霧から始まる。
川沿いを漂う灯篭型データ端末が、夜明けの湿気の中でひとつひとつ点滅を繰り返し、まるで水面に落ちた星の残骸のように揺れている。瀬戸夜依はその光を事務所の窓から眺めながら、百合江の淹れた茶が冷めていくのを止められなかった昨夜のことを思い出していた。
*千重が目覚めてから。*
老女の声が、まだ耳の奥に貼りついている。
ソファで丸くなって眠る千重の寝顔は、何も知らない子供のように穏やかだった。夜依はその顔を一瞥してから視線を引き剥がし、湯気の消えたカップに口をつけた。冷めた茶の苦みが、喉の奥でゆっくりと散った。
インターホンが鳴ったのは、午前九時をわずかに過ぎた頃だった。
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男は大きかった。
ドアを開けると、肩幅が枠いっぱいに広がるような体躯の男が、申し訳なさそうに背を丸めて立っていた。作業着の袖口に古い油染みが残り、手の甲には細かい傷の痕が幾重にも刻まれている。工場で長年働いてきた人間の、正直な手だと夜依は思った。
「堂島、と申します。堂島 誠一。ここが、瀬戸先生の事務所で……合ってますか」
訛りのある言葉づかいで、男は頭を下げた。灯京の南端、旧工業地帯の出身特有のイントネーションだった。
「合ってます」と夜依は言い、ドアを大きく開けた。「入ってください」
男が部屋に入ってくると、千重が寝ぼけ眼でソファから起き上がった。
「お客さん?」
「そう。千重は奥にいてください」
「はーい」
あっさりと引き下がる千重の後ろ姿を見送りながら、堂島は少し表情を緩めた。「かわいいお嬢さんですね」と言いかけて、思い直したように口を閉じた。話すべきことがあって来たのだ、という重さが、その沈黙の中にあった。
夜依は男の向かいに座り、手帳を開いた。
「話を聞かせてください」
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事件は三週間前に起きた。
灯京南部に立地する大手製造企業、ヴォルタ灯工株式会社の第三工場で、プレス機の誤作動による挟まれ事故が発生した。犠牲者は堂島の同僚、倉田 史朗、四十一歳。その場で即死だった。
「俺はすぐそこにいたんです」と堂島は言った。両手をテーブルの上に置き、指を組んでいた。「五メートルも離れていなかった。だから、見ていた。何が起きたか、全部」
ヴォルタ灯工が安全管理局に提出した事故報告書には、記憶ホログラムが添付されていた。事故現場に居合わせた現場監督、蓮田 清孝のものとされるデータだ。そのホログラムによれば、倉田は安全手順を無視して機械に手を伸ばし、自ら事故を招いたことになっていた。被害者の過失。会社側に責任はない。
「でも、それは嘘です」
堂島の声は低く、静かだった。怒鳴らない怒りというものが、こんな声をしている。
「倉田さんは手順通りに動いていた。機械の方がおかしかった。以前から誤作動の報告が上がっていたのに、会社は修繕を先延ばしにしていた。俺は自分の目で見た。なのに、あのホログラムには——」
男は言葉を切り、喉の奥で何かを飲み込んだ。
「あのホログラムには、俺が映っていなかった。五メートルの距離にいたのに、俺の存在が消えていた」
夜依の手帳を持つ手が、止まった。
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稲森壱が事務所の奥から出てきたのは、堂島が話し終えた後だった。
いつのまに起きていたのか、薄い茶を三つ持って現れた壱は、堂島の前にカップを置きながら無表情に言った。
「記憶ホログラムに証人が映っていない、というのは技術的にあり得ます。二種類の方法がある」
堂島が壱を見た。夜依も視線で続きを促した。
「ひとつは、記憶データそのものを事後的に編集する方法。これは高度な改竄で、専門の技術と設備が必要です。細部の光の屈折や空気の粒子運動まで整合性を取らなければいけないので、精度が低いと鑑定で検出できる」
壱はカップに口をつけもせず、淡々と続けた。
「もうひとつは、記憶の提供者——この場合は蓮田という監督——の記憶そのものを改竄する方法。本人が最初から「堂島さんはいなかった」と記憶していれば、ホログラムはその記憶を忠実に映す。つまり、改竄の痕跡がデータの中に残らない」
静寂が落ちた。
堂島が、ゆっくりと息を吐いた。「蓮田さんの記憶を、書き換えた?」
「可能性の話です」と壱は言った。感情のない声だった。「でも、後者の方が巧妙です。データを触らずに証言を変えられる。灯京の記憶鑑定技術は記憶ホログラムの物理的整合性を検査しますが、提供者の主観的記憶の真正性までは担保できない。そこが、盲点です」
夜依はしばらく黙っていた。
窓の外で、灯篭がひとつ、霧の中をゆっくりと川の方へ流れていった。
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躊躇いがなかったと言えば、嘘になる。
弁護士資格は今も手元にある。停止されてはいない。ただ、三年前の冤罪事件以来、夜依はその資格証を引き出しの奥底に仕舞い込んだままにしていた。記憶改竄によって作られた証拠を法廷で覆せなかった。無敗を誇ったすべての勝利が砂の上に建てられたものだったと知った日から、法廷という場所が信じられなくなった。
それでも。
夜依は堂島の手を見た。傷だらけの、正直な手を。
この男は嘘をついていない。嘘のつき方を知らない人間の顔をしている。そして同僚の死を、記憶の書き換えによって「被害者の不注意」にすり替えられようとしている。
真実が、書き換えられようとしている。
それは、かつて夜依自身に起きたことだった。
「受けます」
夜依は手帳を閉じた。
「正式な委任状を書いてください。今日から、私が堂島さんの代理人になります」
男の目に、何かが滲んだ。言葉にならないまま、何度もうなずいた。
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堂島が帰った後、事務所には三人が残った。
千重が奥から戻ってきて、テーブルの上の冷めた茶を一口飲んだ。「あのお父さん、悲しそうだったね」と言った。
「友人を亡くしたんです」と壱が答えた。
「記憶を書き換えられたって言ってたけど」千重は首を傾げた。「記憶が変わったら、その人は本当にいなかったことになるの?」
壱は少し考えてから言った。「記録の上では、そうなります」
「でも」千重はつぶやいた。「堂島さんは覚えてた」
その言葉が、部屋の中に静かに残った。
夜依は引き出しを開けた。奥に仕舞い込んでいた資格証を取り出した。光沢の失せた、薄い一枚のカード。*瀬戸夜依、弁護士*。
指の腹でその文字をなぞった。三年ぶりに触れる感触は、思ったより冷たかった。
窓の外、霧が晴れ始めていた。灯篭たちが川面に集まり、昼の光の中でも白く点滅を繰り返している。その光のひとつが、ふと他のものより強く輝いた気がした。
気のせいかもしれなかった。
それでも夜依は、その光から目を離せなかった。
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翌朝、壱がヴォルタ灯工の内部資料を洗い始めたとき、夜依の端末に一件の着信が届いた。
発信元の名前を見た瞬間、夜依の手が止まった。
*蒼川礼司。*
最高検察官。三年前、夜依を冤罪に追い込んだ男。
着信は、三秒で切れた。
その代わりにテキストが届いた。文字はたった一行だった。
*——その案件には、触れない方がいい。*