灯京地方法廷の扉は、重かった。
物理的な重さではない。夜依が指先を触れた瞬間、三年分の時間が扉の向こう側から押し返してくるような、そういう重さだった。
深呼吸をひとつ。スーツの襟を正して、夜依は廊下の明かりを背に受けながら扉を押し開けた。
法廷は、夜依の記憶よりも美しくなっていた。
天井は吹き抜けになっており、半透明のドームが上空を覆っている。その内側に、微細な投影装置が格子状に埋め込まれていた。いまは稼働していないが、ひとたび証拠申請が通れば、あの格子から光の糸が降り注ぎ、空中に立体的な記憶映像が浮かび上がる。灯京の法廷がそうなったのは十数年前のことだが、夜依が初めて見た日の驚きは今でも忘れていない。光の中に人の過去が揺れる——その光景を、夜依はいつか神聖なものだと思っていた。
いまは、少し違う目で見ている。
傍聴席は八割ほどが埋まっていた。工場事故を報じた各メディアの記者が前列を占め、その後ろに労働組合の腕章をつけた者たちが並んでいる。最後列には、背広姿の男が独り静かに座っていた。夜依は視線を流してその顔を確認し、すぐに正面へ戻した。
蒼川礼司の配下だろう。
弁護席に着くと、すでに着席していた堂島誠一が立ち上がろうとした。夜依は片手で制して、彼の隣に腰を下ろす。
「大丈夫ですか」と夜依は静かに問うた。
「……はい」
答える堂島の声は、乾いていた。三年前に同僚を失い、記憶の中でずっとその瞬間を繰り返してきた男の声は、砂を噛んだように乾いていた。夜依はそれ以上何も言わず、卓上に書類を広げた。
検察席に現れたのは、室井透という男だった。
四十代前半、整った顔立ちに無感情な目。蒼川の直属部下として名を知られているが、法廷での実績は地味で手堅い、というのが夜依の調べた評価だった。けれども夜依は、地味で手堅い検察官を最も警戒する。派手な者は崩しやすいが、地味な者には想定外の粘りがある。
開廷を告げる電子音が法廷に響き、裁判長の端野が席に着いた。
「審理を始める」
室井が立ち上がり、第一の証拠申請を行った。事故当日、現場監督を務めていた梶浦という男の記憶映像だという。記憶提出の同意書、技術認証番号、改竄防止コードの封印確認——法定の手順が淡々と読み上げられ、裁判長が承認の電子印を押した。
法廷の天井が、光を帯びた。
格子から降りてきた白い糸が交差し、絡まり合い、やがて空中に像を結ぶ。工場の内部だった。鉄の梁、無数の配管、黄色い安全ヘルメット。夜依は顎を上げて、その光景を正面から見つめた。
映像の中で、梶浦は事故直前の点検作業を行っている。記憶特有の主観的な揺れがあり、視野の端がわずかに滲む。安全確認のチェック手順は適切に踏まれており、異常を示す兆候は見当たらない——少なくとも、そのように見えた。
室井が淡々と解説する。「事故は設備の経年劣化によるものであり、企業側に安全管理上の重大な過失はない。監督者たる梶浦氏の記憶が、その事実を明確に示している」
傍聴席がざわめいた。
夜依は動じなかった。
記憶映像が消え、法廷に通常の照明が戻る。夜依は立ち上がった。
「異議あり」
声は静かだったが、法廷の空気が変わった。端野裁判長が眼鏡の奥で夜依を見る。傍聴席の記者たちがペンを走らせる手を止めた。
「申し立ての根拠を述べてください」
「今提出された記憶映像には、技術的に不自然な箇所が三点あります」
夜依は書類を持ち上げた。
「第一に、映像内の時刻印字です。梶浦氏の記憶には点検作業が十四時二十三分から開始されたと記録されていますが、工場の入退場ログには十四時三十一分まで梶浦氏の工場内滞在が認められていません。八分間のずれがある。これは記憶の自然な誤差範囲——最大で三分程度——を大幅に超えています」
室井の表情が初めて動いた。微細なものだったが、夜依は見逃さなかった。
「第二に、映像内に登場する配管の色です。事故を起こした第七ラインの配管は、事故の二ヶ月前に塗装の改修工事が行われ、黄から灰色に塗り替えられています。しかし提出された梶浦氏の記憶映像において、該当配管は黄色のままです。これは当時の工場記録と矛盾する」
傍聴席が完全に静まり返った。
「第三に——」
夜依は一瞬、間を置いた。
「映像内において梶浦氏の視野の端に、ほんの一秒弱映り込む人物がいます。防護服着用、ヘルメットのシールが青。この色のシールは管理職限定です。梶浦氏は現場監督ですが、管理職ではない。つまり彼の記憶の中に、いるはずのない人物がいる」
室井が立ち上がった。「記憶の自然な混入では——」
「一秒以上持続して実体として映り込むものは、記憶技術基準法において自然混入と認定されません」
夜依の声は揺れなかった。三年ぶりの法廷だということを、この瞬間、夜依自身がほとんど忘れていた。身体が覚えていた。言葉の重さと速度と、どこへ向けて投げれば最も深く刺さるかを、夜依の喉は三年の眠りから目を覚ましたように正確に知っていた。
「以上の三点から、提出記憶映像は改竄の可能性が高く、証拠としての信頼性に重大な疑義があります。裁判長、本証拠の採用停止と専門機関による再鑑定を申請いたします」
端野裁判長が手を組んだ。
「……検察側、反論は」
室井は一度だけ口を開き、そして閉じた。沈黙が数秒続いた後、彼は「再鑑定の申請に異議を唱えない」と述べた。その声は、かすかに低くなっていた。
再鑑定申請が通った。
法廷が一時休廷になり、傍聴席がざわめきを取り戻す。記者たちが廊下へ向かって動き出した。堂島が隣で、ゆっくりと息を吐いた。細く、長く、三年分の息を少しずつ逃がすように。
「先生」
「まだ終わっていません」と夜依は言った。「でも、今日の証拠は止めました」
それだけ言って、夜依は立ち上がった。書類を揃え、廊下へ出る。人の流れに逆らって法廷の隅へ向かいながら、夜依はひとつの感覚を確認していた。
爽快とは、こういう感触だったか。
忘れていた。緊張と、集中と、そこから抜け出た瞬間の——空気が少し軽くなるような、あの感覚。弁護士である自分を嫌いになりきれなかった三年間の理由が、そこにあった。
「見事でしたよ、瀬戸先生」
背後から声がかかった。
振り返ると、廊下の壁際に室井が立っていた。法廷の中とは異なる、どこか素の表情で。
「お世辞は結構です」
「世辞ではありません」室井は夜依を真っすぐ見た。「ただ——ひとつ忠告しておきたい」
夜依は足を止めた。
「この事件は、あなたが思っているよりも深いところまで根を張っています。梶浦の記憶を改竄した者と、その命令を下した者は、別々にいる。そしてその命令の出所は」
室井は一度、天井を見た。
「わたしにも、見えていない」
夜依は室井の顔を観察した。嘘を言っている様子はなかった。少なくとも、この瞬間は。
「それがあなたの忠告ですか」
「蒼川礼司が直接動いているとすれば」室井は静かに言った。「それは彼の信念が、何かに触れたということです。彼の信念が動いた先に、無事でいた者をわたしは知らない」
廊下の灯りが揺れた——と思ったのは、気のせいだったかもしれない。
夜依は何も答えず、歩き出した。
背中に室井の視線を感じながら、夜依はひとつだけ考えていた。梶浦の記憶の中にいた、青いシールの人物。その顔は一秒以下しか映っていなかったが、夜依は見た。
見た、と思った。
その顔に、見覚えがある気がした。
どこで見たかが、まだ思い出せない。