窓の外で、灯篭型データ端末がゆっくりと川面に向かって降りていく。夜の灯京は、そうやっていつも光を流す。水に溶けるように、失われるように。
夜依は事務所の床に積み上げた資料の山を前に、冷めたコーヒーを口に含んだ。苦みだけが残った。
「夜依さん」
壱の声が背後から届いた。振り返ると、彼は解析台の前で立ち尽くしていた。いつもは感情の起伏が読めない顔に、珍しく何かが走っている。驚愕でも恐怖でもない、もっと奇妙なもの——確信の色、とでも呼ぶべきものが。
「見つけました」
夜依は立ち上がった。
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検察が法廷に提出した記憶ホログラムの複製データは、再鑑定決定の直後から壱の手元に置かれていた。夜依が室井検事の警告を聞き流して事務所に戻ったとき、壱はすでに解析台に向かっており、それから六時間、一度も席を離れなかった。
解析台の上で、工場の記憶が再び展開される。
現場監督・橋立義郎の主観記憶から抽出されたその映像は、崩落事故の三十秒前から始まる。熱気、機械音、焦げた油の匂いを模した感覚情報が部屋に滲み出し、夜依の喉の奥が僅かにひりついた。
「ここです」
壱が映像を一時停止させた。崩落の十八秒前。配管の継ぎ目が映っている。
「光の縫い目」
壱が静かにそう言った。夜依には、最初それが何を指すのかわからなかった。映像はどこも均質に見えた。橋立の記憶が再現した工場の光景は、照明の揺れも、壁面の汚れも、ひどくリアルに見えた。
「わからない人には見えない」と壱は続けた。「でも僕には見える。ここに、繋ぎ目がある」
彼は指先を映像の一点に向けた。配管の継ぎ目から三十センチほど右、何でもない壁面の一角。
「記憶というのは、本来、光源が一定じゃないんです。人間の主観記憶には、注意を向けた場所は鮮明に、そうでない場所は自然にぼやけるという非均質性がある。光の当たり方も、記憶の中では常に揺らいでいる。でもここを見てください」
壱は映像のフレームレートを落とし、問題の箇所を三倍に拡大した。
夜依は眼を細めた。
ある。
確かに、ある。
壁面の一点だけ、光の質が違う。ほかの場所が呼吸するように揺らいでいるのに、そこだけが静止している。いや、静止しているのではなく——縫われている。映像の他の部分と、精密な縫い糸で繋ぎ合わされているかのように、見えない境界線が走っている。
「これは」
「誰かが記憶を切り取って、別の記憶を貼り込んだ痕跡です」と壱は言った。「高度な技術です。通常の記憶鑑定なら絶対に見つからない。でも僕には見える」
夜依は黙っていた。壱が「見える」と言うとき、それは比喩ではない。彼は記憶技術者として訓練を受けた時代、他人の記憶に長く潜りすぎて、記憶の「質感」を皮膚感覚で識別できるようになってしまった。それは才能でも呪いでもあり、彼がその職を離れた理由でもあった。
「貼り込まれた記憶の中に、あの男が立っていた。安全確認をしなかった男が」
夜依が法廷で「謎の人物」として指摘した人影——確かに橋立に安全確認を委ねた指示を出したように見えた男。あれが、差し込まれた偽物だったのだ。
「つまり」夜依は言葉を選びながら言った。「橋立が見ていない場面を、橋立が見たことにした」
「そうです。橋立はその瞬間、別のところを向いていた。本来の記憶では、指示を受けた場面など存在しなかった。改竄者は、橋立の視線の隙間に、ほんの数秒の偽記憶を縫い込んだ」
指示を受けた、だから安全確認を他者に委ねた——その「事実」を橋立自身の記憶が証言するように仕向けた改竄だった。橋立は自分が改竄されたとは知らない。彼は本当に「そう記憶している」のだ。
「縫い目のパターンに、特徴があります」
壱は改めてデータを広げた。縫い目の部分を数値化した波形が浮かぶ。
「記憶改竄師は、それぞれ固有の手癖を持つ。この縫い目のリズム——光の接合の仕方、記憶の温度勾配の処理方法——これは、データベースに一件だけ一致する記録があります」
画面に文字が浮かんだ。
《KAIRO》
「カイロ」と夜依は声に出した。聞いたことのない名前だった。
「灯京の闇市場に生きる、伝説的な記憶改竄師です」と壱は言った。その声はいつもより低く、慎重だった。「記憶改竄師の中でも突出した技術を持つ。摘発されたことが一度もない。依頼人の素性を問わず、ただ技術だけで語られる存在です」
「依頼人を問わない」
「どんな権力にも、どんな組織にも、金さえ積まれれば働く。でも、それだけじゃない」
壱は一瞬、言葉を探すように瞑目した。
「カイロが残す縫い目は、消そうと思えば消せるはずなんです。あの技術力なら。でも消さない。いつも、見えないくらい精密だけれど、確かにそこに残している」
「署名みたいなものか」
「署名、かもしれない。あるいは——」
壱は続きを言わなかった。夜依も促さなかった。部屋に沈黙が落ち、川から流れてくる光が窓に揺れた。
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夜依はソファに沈み込んで、天井を見上げた。
工場事故の記憶は改竄されていた。橋立は嵌められた。それは今や確実だ。誰が、何のために橋立を嵌めたのか——工場の経営側か、あるいはもっと上の、室井が口にした名前の近くにいる何かか。
だが今、夜依の思考は別の場所で立ち止まっていた。
カイロ。
改竄の縫い目を、あえて残す者。
その縫い目は壱にしか見えない。ならばカイロは、それが「見える者がいる」ことを知った上で残しているのか。知られることを望んでいるのか。それとも——
「夜依さん」
千重の声だった。いつの間にか事務所の隅で丸まって眠っていたはずの少女が、目を開けてこちらを見ていた。明かりを落とした室内で、彼女の目だけがわずかに光を拾っている。
「なんか、こわい顔してる」
「してない」
「してる。唇、噛んでる」
夜依は自分の唇に触れた。確かに血の味がした。
千重は眠そうな顔でそれ以上何も言わなかった。目を閉じて、また呼吸を整えていく。
記憶を持たない少女が、穏やかに眠る。
夜依はその寝顔を見ながら、胸の奥で何かが微かに疼くのを感じた。痛みではなく、予感に近い何か。まるで自分の知らない場所で、とっくの昔に糸が繋がれていたような——。
「壱」
「はい」
「カイロの過去の仕事のリストを作れるか。時期、規模、依頼の種類。わかる範囲で」
「やってみます」と壱は答えた。「ただ——」
「ただ?」
「カイロの縫い目が確認できている案件は、僕が直接見たもの以外にありません。公的な記録には一切残っていない」
「つまり」
「あなたが冤罪を負わされた事件も含めて、灯京で起きた記憶改竄事件のうち、どれだけがカイロの手によるものか——今のところ、誰にもわからない」
夜依は何も言わなかった。
窓の外で、最後の一灯が川に沈んでいった。光は水面で揺れて、溶けて、見えなくなる。流れていく先を、誰も知らない。