判決は、午前十一時に言い渡された。
灯京第三法廷の天井には、今日も半透明の灯篭型端末が三十二個、静かに浮遊していた。光の粒が微細に揺れるたびに、傍聴席のあちこちでホログラム記録装置の起動音がかすかに響く。瀬戸夜依は弁護人席に座ったまま、正面の裁判長席を見据えていた。
裁判長・倉石の声は、年齢のわりに張りがあった。
「……本件において提出された被告側記憶データの解析結果、並びに弁護側の提示した改竄痕跡の論証を総合的に勘案し、当法廷は以下の通り判決を下す。被告・東灯工場株式会社は原告・堂島 賢治に対し、事故に関わる一切の責任を負うものと認定する。記憶改竄の事実についても——」
夜依は瞬きをした。
それだけだった。
隣の補助席で壱がかすかに息を吐くのが聞こえた。肩の力が抜けていく気配があった。だが夜依の中では、何かが一拍遅れてようやく動き出すような、奇妙な間があった。勝った、という感触が来るまでに、それだけの時間が要った。
判決文の読み上げが続く間、夜依は視線を少しだけずらして、原告席の堂島賢治を横目に見た。五十四歳、元工場主任。右手首に古い火傷の痕がある。事故から三年、彼の言葉は一度も揺れなかった。記憶改竄で「自分が操作パネルを誤操作した」という偽の記憶を植え付けられても、彼の体の痛みだけは書き換えられなかった。痛みは記憶の外にある。それが突破口だった。
堂島は目を閉じていた。涙が頰を伝っているのを、夜依は見なかったことにした。
*
法廷を出ると、十一月の光が廊下の窓から白く差し込んでいた。
「先生」
堂島が振り返った。目が赤かった。夜依は小さくうなずいた。それ以上の言葉は、今は必要ない。三年間の重みは、簡単に言語化できるものではないと、夜依は知っていた。自分自身が冤罪の重さを体に刻んでいるから。
「ありがとうございます」と堂島は言い、深く頭を下げた。「信じてくれて、ありがとうございます」
信じた、とは言えなかった。夜依は証拠を積み上げた。論理を組んだ。感情の入り込む余地を意識的に排除して、ただ「改竄の痕跡がある」という一点に全てを集中させた。それが勝訴の理由だ。信じることとは、少し違う。
でも堂島には、それは言わなかった。
「ご自身を大切に」
それだけ言って、夜依は歩き出した。
壱が横に並ぶ。彼もまた何も言わなかった。この三週間で身につけた阿吽の呼吸が、今はありがたかった。
*
エレベーターのボタンを押した瞬間、背後で人が動く気配がした。
夜依が振り返ると、廊下の角から男が一人、堂島に近づいていくのが見えた。黒いコートに、目深に引いた帽子。手には何も持っていない。だが何かを告げている。堂島の顔が——
変わった。
血の気が引くとはこういうことを言うのだと、夜依は思った。三年間、一度も揺れなかった男の顔が、数秒で灰色になった。
「壱」
「見えてる」
二人は廊下を引き返した。しかし角を曲がると、黒いコートの男は既にいなかった。エレベーターの扉が閉まりかける音だけが残っていた。堂島は壁に手をついて立っていた。
「堂島さん」
夜依が肩に触れると、堂島はびくりと体を震わせた。
「……大丈夫です」
「大丈夫ではありませんね」
間を置いて、堂島はかすかに首を横に振った。
「何を言われましたか」
「……家族の、名前を言われました。妻と、娘の」
夜依の奥歯が、静かに噛み合った。
「それだけですか」
「それだけです。名前を並べて、それから——今日の判決はなかったことにできる、と」
廊下に、灯篭型端末が一つ漂っていた。判決の日には傍聴記録用の端末が法廷外にも配置される。光の粒が、ゆらゆらと揺れていた。
*
事務所に戻ったのは午後二時過ぎだった。
千重がソファから跳び上がった。「どうだった?!勝った?!」
壱が小さくうなずくと、千重は「やったー!」と声を上げ、両手を上に伸ばして飛び跳ねた。その陽気さが、今日だけは少しだけ遠く感じられた。
夜依は上着を脱ぎながら、窓の外の川を見た。昼の灯京は、光よりも影が多い。高層ビルの谷間に川が細く光り、その上を灯篭型端末が無数に行き交う。データの川、とも呼ばれる光景だ。誰かの記憶が、誰かの生活が、光の粒になって空中を流れている。
東灯工場事件は、堂島一人の記憶が改竄されていた。それだけで三年間、一人の人間の人生が歪められた。しかし——
夜依は考えた。
今日の男は何者か。堂島の家族の名前を把握していた。判決直後に接触できるほど、情報が早かった。東灯工場の規模で、そこまでの組織的対応ができるか。
できない。
弁護士として蓄積してきた判断回路が、静かに答えを弾き出した。
東灯工場は端末だ。誰かがその裏で糸を引いている。そして糸は、一本ではない。
「夜依さん?」
千重の声が届いた。いつの間にか、彼女が横に立っていた。
「顔、怖い」
「……そうですか」
「うん。眉間にしわ、すごい。勝ったのに」
夜依は息を吐いた。怖い顔、と言われたのはいつ以来だろう。かつての法廷では、それが武器だった。今は千重に指摘される。
「勝訴の後に、問題が起きました」
「問題?」
「依頼人が脅されました。おそらく組織的に」
千重は少し黙った。それから、「組織、って」と言った。「大きい話?」
「わかりません。でも——」
夜依は窓に視線を戻した。灯京の川が、白い午後の光の中で揺れている。
「この街で記憶改竄が行われるとき、それは個人の欲得だけで動いていないかもしれない、と今日初めて直感しました」
言葉にすると、改めて重くなった。直感、などと言ったことは今まで一度もなかった。自分は証拠を扱う人間だ。しかしあの廊下での感触は、論理の前にあった。黒いコートの男が、堂島に名前を告げた、あの一瞬——
まるで訓練された動きだった。
「壱」
壱はデスクでデータを整理しながら、手を止めずに答えた。「何」
「東灯工場事件の関連企業、改めて洗ってください。特に、設立の経緯と資本関係を」
「……やっぱり繋がってると思う?」
「まだわかりません。でも——繋がっていたとしても、驚かない気がする」
壱が初めて手を止めて、夜依の横顔を見た。珍しいことだった。彼が作業の手を止めるときは、何か「響いた」ときだけだ。
「夜依さんが直感で動こうとするのを見るのは、初めてだ」
「嫌いですか」
「逆に」
短い返答だったが、それ以上は聞かなかった。
*
夕方、糸村百合江が差し入れを持って階段を上がってきた。栗の甘煮と、ほうじ茶。
「勝訴おめでとう」と百合江は言い、丸椅子に腰を下ろした。「新聞で見たわよ。記憶改竄を認定させた弁護士、って」
「大袈裟な書かれ方をするでしょうね」
「大袈裟じゃないでしょ。前例ができたのよ」
夜依は栗を一つ、箸で割った。甘い香りが立つ。
「百合江さん」
「なに」
「この街で、記憶改竄事件はどのくらい存在すると思いますか」
老女はほうじ茶を一口飲んで、少しだけ間を置いた。
「表に出ているものと、出ていないものを合わせれば——」
そこで百合江は止まった。
「出ていないもの、のほうが遥かに多い、とだけ言っておく」
「あなたは知っているんですか。規模を」
百合江は答えなかった。ただ窓の外に目をやって、川面を見た。夕刻の光が水に溶けて、橙色の揺らぎを作っていた。灯篭型端末が一列、川の上流から下流へと流れていく。
「万灯流しは」と百合江は言った。唐突に。「もともと、償いの儀式なの」
夜依は箸を置いた。
「何の償いですか」
「さあ。でも——」
老女の目が、川から夜依へと戻った。深い皺の奥に、何かが光った。
「灯京という街が灯篭を流すとき、それはいつも何かを鎮めようとしているのよ」
その夜、夜依は眠れなかった。
窓の外の川には光が流れ続け、街は静かに、何かを忘れようとしているようだった。あるいは——忘れさせようとしているのか。
違いは、一文字だけだ。
しかしその一文字の重さが、真夜中の事務所でじわじわと、夜依の胸の中に沈んでいった。