夜が、また一枚薄くなっていた。
蒼汰はそれを、肌で感じた。部屋の窓から見上げる夜空は、相変わらず無数の星座をちりばめているように見えた。しかし何かが違う。光の密度とでも言うべきか、かつてはもっと夜そのものに重みがあったはずなのに、今の夜は紙を透かしたように頼りなく、触れればひび割れてしまいそうな脆さをはらんでいた。
天弦老師から受け取った記録冊子は、机の上に置いたまま開けていない。
正確には、開けられなかった。老師の告白が頭の中でまだ渦を巻いていて、そこへ言葉を重ねることが怖かった。母が依頼した。自分を守るために。その事実ひとつが石のように胸に沈んでいて、呼吸するたびに鈍く痛んだ。
けれど霞鳥はあの夜、老師の言葉を否定した。
——記憶は切られていない。隠されているのだ、と。
二つの証言が互いに食い違っている。老師は嘘をついているのか。それとも老師自身が、何かを知らずに信じ込まされているのか。蒼汰には判断する術がなかった。ただ、霞鳥のあの声だけが——かすかに光を帯びていた。
窓の外で、何かが動いた。
蒼汰は息を詰めた。夜風でもなく、木の枝でもない。もっと意志のある動きだった。視線を凝らすと、窓枠の外縁に一羽の鳥が止まっているのが見えた。いや、「見えた」という言い方は正しくない——それはほとんど透けていて、輪郭だけが朧に夜の中に浮かんでいたのだから。
霞鳥だった。
「……来ていたのか」
声をかけると、霞鳥はゆっくりと頭を傾けた。その動きに合わせて、羽の輪郭がわずかに揺らいだ。以前に比べて、明らかに存在が薄い。まるで消えかけたインクで描いた鳥の絵のように、蒼汰は思った。
「時間がない」
霞鳥が口を開いた。声は相変わらず澄んでいたが、その底に——初めて聞く種類の切迫があった。
「私が完全に消える前に、すべてを話さなければならない」
蒼汰は窓に歩み寄り、桟に両手をついた。霞鳥と目が合う。透明になりかけた瞳の中に、星座の光が薄く映り込んでいた。
「消えるって、どういうことだ」
「文字通りの意味だ。私はこの世界の境界に存在している。夜と地の間、記憶と現実の狭間に。しかしその境界が薄くなれば、私もまた薄くなる。夜空が消えるのと同じ理屈だ」
蒼汰の喉が乾いた。夜空の消滅が霞鳥の消滅と連動している——ということは、調査が長引けば長引くほど、この使者は消えていく。
「急がなければいけないのはわかっている。だから聞いてくれ」
霞鳥は翼をわずかに広げた。その輪郭がまた一瞬、にじむように揺れた。
「私は夜宮の最後の記憶から生まれた」
夜宮。その名前が空気を変えた。三百年前に夜図界の夜空を設計したとされる伝説の地図師。記憶の星座というシステムを、この世界に作り上げた人物。
「夜宮の……記憶から」
「そうだ。夜宮が自分の最後の記憶を夜空に放ったとき、その記憶が形を持って生まれたのが私だ。使者と呼ばれているが、私は本来、伝言そのものだった。夜宮が誰かに届けたかった言葉の、最後の器だ」
蒼汰はゆっくりと息を吸った。霞鳥が記憶から生まれているなら——零花と似ている。落下した記憶の欠片から生まれた零花と。この世界には、記憶が命を持つことがある。
「夜宮は三百年前に死んだ、と記録されている」
蒼汰は慎重に言った。霞鳥はその言葉を受け止め、翼の羽毛が風もないのに静かに揺れた。
「記録は、間違っている」
静かな断言だった。しかしその静かさがかえって、言葉に確かな重さを与えていた。
「夜宮は今も生きている」
一瞬、世界が止まったように感じた。夜が凍り、星座がその軌道を止め、窓の外の風がすべて息を潜めたように。蒼汰の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
「……生きている?三百年間、ずっと?」
「夜空のシステムの中に、夜宮は自分自身を組み込んだ。記憶の星座が循環し続ける限り、夜宮の意識もまた循環し続ける。死なないのではない——死ねないのだ。あの人は自分を星座の一部にした。夜空と一体になることで、システムを内側から制御し続けてきた」
蒼汰は言葉が出なかった。三百年。人が何世代も生まれ、老い、記憶を夜空に残し、死んでいく間——夜宮はずっとそこにいた。夜そのものの中に溶け込んで、見えない場所から世界を維持し続けていた。
「そして夜空が消え始めているのは」
「夜宮が、手放そうとしているからだ」
霞鳥の声に、初めて感情のようなものが滲んだ。悲しみとも、哀れみとも取れる、そういった質のもの。
「三百年間、夜宮はこの世界を守り続けた。記憶が失われないように。人々が過去を忘れないように。しかし今、夜宮はもう限界なのだと思う。あるいは……もういいと、思っているのかもしれない」
「もういい、って」
「三百年は長すぎる。誰かに引き継いでもらわなければならなかった。だからこそ夜宮はずっと待っていた——その鍵を持つ者を」
霞鳥の透明な瞳が、蒼汰を真っ直ぐに見つめた。
言わなくてもわかった。
「俺が、その鍵だということか」
「お前の白紙の記憶は、切られたものでも消えたものでもない。夜宮が直接、そこに何かを刻んだ。誰にも触れられないように、隠したのだ。なぜなら——」
そこで、霞鳥の輪郭が大きく揺らいだ。まるで強い風に吹かれたように、存在の境界がにじみ、溶け、羽の一枚一枚が夜の中に溶け出していくように見えた。
「霞鳥!」
蒼汰は思わず手を伸ばした。しかし霞鳥の身体はすでに半分が夜に還りかけていて、手が触れる前にその羽が指をすり抜けた。温かくも冷たくもない、ただ「ない」という感触だけが残った。
「……時間切れだ」
霞鳥の声が、遠くなっていた。夜の向こう側から届くような、響きだった。
「次に会えるかどうか、私にもわからない。しかしお前は進め、蒼汰。記録冊子を読め。零花と話せ。縹にも、頼れるものがあるなら頼れ。そして——」
声が、途切れた。
霞鳥の姿は完全に消えていた。窓枠の外縁には何も残っていない。夜があるだけだった。薄く、頼りない、今にも破れそうな夜が。
蒼汰はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
夜宮は生きている。
言葉を反芻するたびに、それがどれほど巨大な事実かが染み込んでくる。三百年前の地図師が、システムの内側に意識を閉じ込めたまま今も存在している。そして蒼汰の白紙の記憶の中に、夜宮が直接何かを刻んだ——。
なぜ。なぜ自分なのか。
霞鳥は「なぜなら」と言いかけて、消えた。
その先の言葉が、石のように蒼汰の胸の底に沈んでいた。答えのない問いの形をして。
ゆっくりと振り返り、机の上の記録冊子を見た。天弦老師が渡したそれは、相変わらず静かに閉じられたままだった。しかし今は、その沈黙が違う意味を持って見えた。この中に何がある。老師が書き留めた記録の中に、夜宮という名前はあるのか。
蒼汰は椅子を引き、座った。
手が、冊子の表紙に触れた。
今夜、読む。
読まなければならない——霞鳥が次に姿を現せるかどうかわからない今、与えられた手がかりはこれだけだ。そして霞鳥の言葉の途中で切れた「なぜなら」の先を、自分で見つけなければならない。
夜空が、また一粒、どこかで光を失った。蒼汰には見えなかったが、確かにそれを感じた。失われていく時間の中で、真実はまだ隠されたまま、息を殺して待っていた。