灯りが細い。
天弦の執務室は、蒼汰がこれまで何度か足を踏み入れたことのある場所だった。しかし今夜のそこは、いつもとどこか違う顔をしていた。燭台の蝋燭は三本しか点されておらず、積み上げられた記録冊子の背表紙が橙色の影の中に沈んでいる。窓の向こうには夜空が広がっているはずなのに、厚い緞帳が引かれて星座の光を遮っていた。まるで老師が、夜そのものを部屋の外へ締め出そうとしているかのように。
蒼汰が呼ばれたのは夕刻過ぎのことで、使いを頼まれたのは霞鳥だった。珍しいことに霞鳥は言葉少なく、「今夜、行かなければならない」とだけ告げると桟から飛び去った。その羽音が廊下に消えたあとも、蒼汰はしばらく動けなかった。記録庫での出来事から二日が経っていた。零花はまだ休んでいる。あの夜、記憶の洪水から戻ってきた零花の手は、蒼汰の手を握ったまま長い時間放さなかった。
扉をくぐると、天弦は椅子に座っていた。机の上には何も置かれていない。老師が何も置かない机というのを、蒼汰は初めて見た。
「来たか」
声は穏やかだったが、いつもの余裕が削ぎ落とされていた。蒼汰は無言で礼をして、示された椅子に腰を下ろした。向かい合うと、天弦の目の奥にある疲弊の深さが分かった。皺の刻まれた顔が、今夜は幾年分か老けて見える。
「まず聞かせてほしいのだが」と天弦は言った。「お前は、私を信じているか」
蒼汰は答えを探した。正直に言えば、信じているとも、疑っているとも言えなかった。老師はずっとそこにいた。教えを授け、道を示し、しかし肝心なところで何かを隠している気配がある。記録庫への立ち入りを制限したのも天弦だ。夜空の異変を誰よりも早く知りながら沈黙していたのも。
「わかりません」と蒼汰は言った。「でも、聞く用意はあります」
天弦はかすかに目を細め、それから深く息を吐いた。
「正直な答えだ。ならばこちらも正直に話そう」
老師は立ち上がり、部屋の奥の書棚へ歩いた。一段、また一段と手を這わせ、やがて一冊の冊子を引き抜く。それは記録冊子ではなかった。皮装丁で、表紙には文字がない。ただ、細い金糸で星図に似た模様が縫い込まれていた。
「私の家は、夜宮の弟子筋にあたる」
その一言が、執務室の空気を変えた。
夜宮。蒼汰はその名を、ここ数週間で何度も耳にし、記録の端で目にしてきた。三百年前に夜図界そのものの夜空を設計したとされる伝説の地図師。記憶が星座として結晶化し、空を形成するこの世界の秩序を意図的に構築した存在。その名は史書の中では英雄に近いが、蒼汰が見てきた断片の中では、もっと複雑な影を帯びていた。
「弟子筋というのは」と蒼汰は慎重に言った。「直接の血縁ではないということですか」
「そうだ。夜宮に子はいなかった。だが技と、そして使命を引き継いだ者たちがいた。私の先祖はその一人だ」天弦は冊子を机の上に置いたが、まだ開かない。「三百年前、夜宮が夜空の設計を完成させたとき、彼はその設計図を弟子たちに託した。夜空は永続する装置ではない。調整が必要で、解読できる者がいなければやがて歪む。そのための設計図だ」
「つまり」蒼汰は言葉を選んだ。「今、空で起きていることは――設計図がなくなったから?」
「百年前に、盗まれた」
静寂が落ちた。
蒼汰は老師の顔を見た。天弦は視線を机の上の冊子に落としている。その横顔には、告白することの重みが滲んでいた。長年秘密にしてきたものを声に出す瞬間の、取り返しのつかない解放感と悔恨が入り混じった顔。
「百年前というのは」
「私の祖父の代だ」天弦はようやく椅子に戻り、深く背をもたせかけた。「詳細は未だに不明の部分が多い。設計図は代々、一人の後継者にのみ引き継がれる形で保管されてきた。私の祖父がその守役だったが、ある夜、図は忽然と消えた。祖父は生涯それを悔いて死んだ」
「盗んだのは誰ですか」
「わからない。当時から今に至るまで、痕跡しか見つかっていない」
蒼汰は唇を結んだ。不信感が胸の底でくすぶるのを感じた。設計図を失って百年。夜空は今、星座を失い始めている。それだけの時間があって、なぜ誰も対処してこなかったのか。なぜ天弦はずっと黙っていたのか。
「老師」蒼汰は言った。声が思ったより硬くなった。「なぜ今まで話さなかったんですか。異変が始まったとき、あなたは最初から知っていたはずだ」
天弦は答えない。蒼汰は続けた。
「零花が記録庫で倒れました。彼女は誰かの記憶の洪水に飲まれた。私は何もできなかった。それでも老師が何を知っているか、あなたが教えてくれさえすれば――」
「お前が傷つく前に終わらせたかった」
低い声だった。怒鳴るでも言い訳するでもなく、ただ静かにそこに置かれた言葉だった。
蒼汰は黙った。
「お前の白紙の記憶のことを、私はずっと前から知っていた」天弦は続ける。「お前が入門してきたとき、地図師として記憶を写す技を学ぶたびに、お前自身の幼少期だけが白紙になっていることが分かった。それは偶然ではない、とすぐにわかった。なぜなら設計図の記述の中に、同じ性質の空白についての記述が存在したからだ」
蒼汰は息を飲んだ。
「設計図は盗まれる前に、祖父が一部を書き写していた。それがこれだ」
天弦が冊子を開いた。頁の上に広がったのは、細密な線の集合体だった。星図とも、回路図とも見える。ところどころに文字があるが、蒼汰には読めない古い書体だ。しかし中央に、ひとつだけ読める言葉があった。
――空白を持つ者が、鍵となる。
蒼汰の指が、無意識に己の胸に触れた。
「設計図が盗まれたとき、夜宮の仕掛けが発動したのだと祖父は推測していた」天弦は言った。「夜空の系が外部から操作される事態に備え、夜宮は最後の安全装置を埋め込んでいた。その装置は、特定の人間の記憶の中に封じられる。そしてその記憶が開かれたとき、夜空の設計が再起動される」
「それが――」
「蒼汰、お前の白紙の中に何があるのか、私にはわからない。だが夜宮がその仕掛けを施したとすれば、お前はただの見習いではない。お前は最初から、この夜空に選ばれていた可能性がある」
蝋燭の炎が揺れた。風は来ていない。
蒼汰は膝の上で手を握った。選ばれていた、という言葉の意味を、頭がすぐには処理できなかった。怒りと、驚きと、そしてどこか奇妙な納得が混ざり合い、うまく形にならない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。
零花が倒れたあの記録庫で、彼女は言った。あなたの声に似た記憶を見た、と。それは誰かの記憶だったのか。あるいは自分自身の、閉じられた記憶から漏れ出したものだったのか。
「老師」蒼汰はゆっくりと顔を上げた。「設計図を盗んだ人間の手がかりが何かあるなら、全部教えてください。隠さずに」
天弦は長い沈黙の後、頷いた。
「ある」と老師は言った。「ただ、それを話すには、もう一人呼ぶ必要がある」
「誰を」
天弦の目が、わずかに暗くなった。
「縹だ」
炎がまた揺れた。今度は、確かに風のない部屋の中で。