朔が持ってきた桜餅の残り香がまだどこかに漂っているような気がした。灯子は相談所の小さな文机の前に正座し、うずたかく積まれた半紙の山と向き合っていた。筆ペンを握る手に、妙な力が入っている。

 「冥界接客マニュアル 第一版」

 表紙にそう書いて、灯子はひとつ頷いた。

 事の発端は三日前に遡る。ぽん太が受付に立ち、初めて単独で依頼人を出迎えた。相手はおっとりした顔立ちの老人の亡者で、生前に仲たがいしたままの息子のことを相談しに来た、ごく穏やかな案件だった。ぽん太は精一杯背筋を伸ばし、灯子に教わった通り「いらっしゃいませ」と言った。ここまではよかった。問題はその直後で、老人が「息子に謝りたかったのだが間に合わなかった」と静かに言った瞬間、ぽん太の顔がぐしゃりと崩れ、盛大に泣き始めたのである。老人ではなくぽん太が。

 「うわあああ申し訳ないっ申し訳ないっ」

 屈強な体を折り曲げ、畳に額を擦りつけるようにして号泣するぽん太を、老人が困惑しながら背中を撫でるという、世にも奇妙な光景が繰り広げられた。灯子が奥から飛んできた時にはすでに手がつけられない状態で、さだが「まあまあ」と茶を出し、閻魔丸が縁側でひとり腹を抱えて笑っていた。

 「笑ってないで助けてください!」

 灯子が叫んでも、閻魔丸は「いや、これは傑作だ」と涙を拭うばかりだった。あの涙が真剣だったのか笑い泣きだったのか、今もって不明である。

 というわけで、灯子は一晩かけてマニュアルを書き上げた。

 全十二ページ。筆文字で丁寧に、しかし所々に赤線と注釈が入っている。「依頼人の前で泣かない」「共感は大切だが号泣は厳禁」「感情が昂ぶったら深呼吸を三回」。実際に起きた事案を念頭に置いた生々しい記述が続く。

 「ぽん太」

 縁側の方に向かって呼ぶと、箒を抱えたままぽん太がのっしのっしと現れた。二メートル近い体躯に短い角、顔には相変わらず童顔という不思議な組み合わせ。その目が今日もどことなく潤んでいる。

 「お呼びっすか、灯子先輩」

 「これ、読んで。今日から特訓を始めます」

 ぽん太はマニュアルを受け取り、一ページ目を開いた。五秒後、目が赤くなり始めた。

 「……先輩、これ、俺のために書いてくれたんすか」

 「ビジネス文書です。泣かない」

 「でもこんなに丁寧に……」

 「泣かない」

 「はいっ」と言いながらぽん太は袖で目を拭い、ごしごしと鼻をすすった。灯子は額に手を当て、長い息を吐いた。先が思いやられる。

---

 特訓は午後から始まった。

 さだが「本日の相談受付は灯子さんと私が控えますゆえ、存分にどうぞ」と縁側に椅子を並べ、どこからか持ってきた手拭いをぽん太の衣に挟んでやっていた。備えである。灯子は思わず「さださん、慣れてますね」と言ったが、さだは「三百年おりますと色々と」と涼しい顔をした。

 模擬接客の依頼人役は、たまたま通りかかった顔見知りの亡者・お菊さんに頼んだ。生前は下町の豆腐屋を営んでいた気さくな中年女性で、「面白そうだから付き合ってあげるよ」と快く引き受けてくれた。

 「じゃあ始めましょう。ぽん太、最初からどうぞ」

 ぽん太はびしりと背を伸ばし、お菊さんが玄関から入ってきたところで頭を下げた。

 「いらっしゃいませ。冥界出張相談所へようこそ。本日はどのようなご相談でしょうか」

 完璧だった。声の大きさも姿勢も、申し分ない。灯子が小さく拍手しかけたその瞬間、お菊さんがしんみりした声で言った。

 「あのね、生前に世話になったお隣のご夫婦に、ちゃんとお礼が言えないままだったんだよ。ずっと気になってて」

 三秒の沈黙。

 灯子がぽん太の顔を見ると、眉がへの字になり、唇がわなわなしていた。

 「ぽん太、深呼吸」

 「す、すすす」

 「ゆっくり」

 「うっ……うっ……お菊さんっ!!」

 決壊した。

 ぽん太は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。その規模が三日前より大きかった。畳が揺れ、棚の湯呑みがかたかたと鳴り、縁側で書類を見ていた閻魔丸が「おや」と顔を上げた。

 「ちゃんとお礼を言いたかったなんて、そんな、そんな健気なっ……お菊さん、あなたは本当に良い方だ!!」

 「いや、そんなに言われると照れるねえ」

 お菊さんがぽかんとしている横で、灯子はマニュアルを丸めて自分の額に押し当てた。何かが根本的に間違っている。いや、ぽん太が悪いわけではない。感受性が豊か過ぎるのだ。弁護士時代、依頼人の話を聞いて泣く同僚を見たことがなかった灯子には、この感情の動きがどうにも制御できないものに映った。

 ところが、そこで予想外のことが起きた。

 お菊さんが、ぽん太の背中にそっと手を置いたのだ。

 「……ありがとうね」

 静かな声だった。さっきまでとは明らかに違う、核心に触れたような声音だった。

 「こんなに泣いてくれる人、久しぶりに見たよ。あたし、死んでから誰かにそんな風に思ってもらったこと、なかったかもしれない」

 ぽん太が顔を上げた。目が真っ赤で、鼻の頭まで赤い。それでも懸命に依頼人の顔を見ようとしている。

 「お菊さんの気持ち、ちゃんと届けます。絶対に届けます。俺、それだけは約束できます」

 嗚咽交じりの言葉だったが、その真剣さは疑いようがなかった。お菊さんは少しの間ぽん太を見つめ、それからふっと肩の力を抜いた。

 「そうかい。じゃあ、頼もうかね」

 灯子は気がついたら息を止めていた。

 ――届いている。

 論理でも言葉の技術でもなく、ただ全力で泣いたぽん太の涙が、お菊さんの中の何かをほぐした。長い時間をかけて固まっていた何かを。

 「……なるほどね」

 思わず呟くと、さだが横に来て耳打ちした。

 「亡者というのはね、灯子さん。生前のうちに誰かにきちんと泣いてもらえなかった方が多いのですよ。だからぽん太さんの涙が刺さるのかもしれません」

 その言葉が、じわりと灯子の胸に沁みた。

 弁護士時代、灯子は泣かなかった。泣くことは隙だと思っていた。感情を切り離してロジックで戦うことが、相手への誠意だと信じていた。それは間違いではなかったかもしれない。でも、ここは法廷ではない。

 縁側から閻魔丸がのそりと近づいてきた。

 「灯子よ」

 「なんですか」

 「マニュアルの第七条に『涙は厳禁』と書いてあるが、そこは書き直した方がいいな」

 「……検討します」

 「うむ」と言って、閻魔丸はまた縁側に戻っていった。その背中が珍しく真面目に見えたのは、気のせいではないかもしれなかった。

---

 日が傾き始めた頃、ぽん太はお菊さんの「本当の相談」をきちんと聞き終えた。泣いたのは最初だけで、後は真剣な顔で話を聞き、時おり頷いた。不器用だが誠実な受け答えだった。

 お菊さんが帰り際に「また来てもいいかい」と言った時、ぽん太は「もちろんです」と言い、それから少し迷って「次は泣きません」と付け加えた。お菊さんは笑った。

 「泣いてもいいよ。あたしは嫌いじゃないから」

 玄関の戸が閉まってから、ぽん太はまた泣いた。今度は嬉しくて泣いていた。灯子はマニュアルの第七条に二重線を引きながら、口の端が自然に上がっていくのを止めなかった。

 その夜、灯子が書き直したマニュアルの第七条には、こう書かれていた。

 「涙は、時に最大の接客ツールになり得る。ただし使いどころに注意すること」

 注釈の欄には小さく「ぽん太特例規定」と添えてあった。

---

 「なあ、灯子」

 閻魔丸が夕餉の茶碗を片手に言った。

 「ぽん太のあの泣き方、少し朔の持ってくる雰囲気に似ていると思わないか」

 灯子は箸を止めた。

 「……どういう意味ですか」

 「さあな。ただ、境界に立つ者というのは、泣き方で分かることがある」

 それだけ言って、閻魔丸は茶碗の飯をかき込んだ。灯子はしばらくその言葉を転がしてから、静かに箸を置いた。

 境界に立つ者。

 朔の顔が、思いがけず鮮明に浮かんだ。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

12

ぽん太の接客特訓、大惨事

夕凪 一葉

2026-05-24

前の話
第12話 ぽん太の接客特訓、大惨事 - 笑う閻魔と、三丁目の相談所 | 福神漬出版