秋の気配が漂いはじめた境界路地は、昼過ぎになっても薄ぼんやりとした光の中に沈んでいた。現世では鈴虫が鳴く頃合いのはずなのに、冥界側からにじみ出るほの暗さが、季節の音を少しだけ遠ざけているのだった。
相談所の引き戸が開いたのは、灯子が現世調査に出かけて一時間ほど経った頃のことだった。
「ごめんくださいー」
幼い声が、ぽん太の背中に飛び込んできた。
ぽん太はちょうど、骨川さだに言いつけられた縁結び台帳の整理を途中で投げ出し、囲炉裏端でこっそり居眠りしていたところだった。恐ろしい鬼の顔が、目を見開いてパッと起き上がる。
「な、なんだ!」
目の前に立っていたのは、小さな女の子だった。
五歳か、六歳か。亡者の証である透けかけた輪郭をしているが、着ている水色のワンピースだけが不思議なほど鮮やかで、白い靴下の片方が少しだけずり落ちていた。丸い目が、ぽん太の顔をじっと見ている。
「……まいごに、なりました」
女の子がそう言った。
ぽん太は硬直した。閻魔丸は書類仕事が嫌になり、さだばあちゃんは買い出しに出かけている。灯子がいない。つまり今この相談所には、接客業が壊滅的に苦手な屈強な鬼と、迷子の幼い亡者の二人きりという、世界で最もバランスの悪い組み合わせが成立してしまっていた。
「き、聞いてるか! 俺は獄卒ぽん太だ。お前は……迷子か」
ぽん太の太い声が、わずかに裏返った。女の子はこくりと頷く。
「うん。ひかり、ひとりになっちゃった」
「ひかり……か。そうか」
ぽん太は腕を組んだ。脳裏に灯子の顔が浮かぶ。接客研修で何度も叩き込まれた言葉たちが、頭の中でてんでばらばらに散らかっていく。
まず笑顔。笑顔だ。
ぽん太はありったけの善意を込めて笑った。
ひかりちゃんは一歩後退した。
「……こわい」
「す、すまん!」
鬼が謝った。その声があまりにも大きく、相談所の障子が震えた。ひかりちゃんがびくっとして目に涙を溜める。ぽん太は慌てて両手を振った。
「泣くな泣くな! 俺は怖くない、怖くないぞ!」
泣かせてしまった。完全に泣かせてしまった。
ぽん太は途方に暮れながら、それでも動いた。台所から骨川さだが出かける前に用意していた麩饅頭を一皿持ってきて、ひかりちゃんの前にそっと置く。
「……これ、食えるか。甘いぞ」
ひかりちゃんは涙をぬぐい、まん丸な目でぽん太を見て、それから麩饅頭を見た。おずおずと小さな手が伸びる。一口齧って、少しだけ目が丸くなった。
「あまい」
「そうか」
ぽん太は安堵で肩の力を抜いた。とりあえず、泣き止んだ。これは一点だ、と思った。
話を聞くと、ひかりちゃんは転生の列からはぐれてしまったらしかった。転生の窓口は冥界のずっと奥にあって、家族と一緒に歩いていたのに、気づいたら一人だったという。境界路地に迷い込んできたのは、相談所の灯りが見えたからだった。
「おとうさんと、おかあさんが、いない」
「ああ、そうか。じゃあ一緒に探しに行くぞ」
ぽん太は立ち上がった。転生窓口の担当部署に連絡を入れれば早いのだが、ぽん太は冥界内線の使い方を完全に把握していなかった。引き出しを片っ端から開け、灯子が書いた連絡先一覧を探し出すのに十分かかった。
冥界転生管理課に繋いだが、回線が込み合っているとのことで、折り返しを待つことになった。
「……待つことになった」
ぽん太はひかりちゃんに正直に告げた。ひかりちゃんは「うん」と言い、麩饅頭の二個目に手を伸ばした。
沈黙が降りた。
ぽん太は畳の上に胡座をかいて、ひかりちゃんはちょこんと正座している。二者の間には、麩饅頭の皿だけがある。
「……怖くないか、俺のこと」
気づけばぽん太はそう聞いていた。ひかりちゃんはしばらく考えて、首を傾けた。
「さいしょは、こわかった。でも、いまは、ちょっとだけこわい」
「ちょっとだけか」
「うん、ちょっとだけ」
その正直さに、ぽん太は思わず小さく吹き出した。ひかりちゃんが不思議そうな顔をする。
「お前、正直だな」
「おかあさんが、うそついちゃだめって」
「そうか。いいお母さんだな」
ひかりちゃんの表情が、ほんのり陰った。うん、と頷く声が、さっきより少し小さかった。
ぽん太は黙って、そのまま隣に座っていた。何か気の利いたことを言おうとしたが、何も浮かばなかった。灯子ならうまく話を引き出すだろう、と思った。さだばあちゃんならもう抱きしめているだろう、と思った。でも今ここにいるのは、不器用な鬼一匹だけだった。
だからぽん太は、ただそこにいることにした。
しばらくして、ひかりちゃんが口を開いた。
「おに、つのがある」
「ある」
「どこにでも、生えてくるの?」
「生えてはこない。もともとある」
「ふうん」
ひかりちゃんはぽん太の角をじっと見た。見られているぽん太は妙にこそばゆくて、目を逸らした。
「さわっていい?」
「……まあ」
小さな指が、おそるおそるぽん太の角に触れた。冷たくてつるつるだ、とひかりちゃんが言った。ぽん太はうん、と答えた。
「おに、やさしい」
その言葉が、ぽん太の真ん中に、ゆっくり落ちてきた。
おに、やさしい。
ぽん太はしばらく返事ができなかった。目の奥が、じわりと熱くなった。接客研修で灯子に「泣くな、泣くな、お客様が怯える」と何度も叱られたのに、止められなかった。大粒の涙が、鬼の頬を伝い落ちた。
「な、泣いてない! 目に何か入っただけだ!」
「ないてる」
「ないてない!」
「ないてる」
ひかりちゃんが今度は笑った。くすくすと、鈴が転がるような声で。
その笑い声を聞いた瞬間、ぽん太は涙をごしごしと拭いながら、胸のつかえが少し取れたような気がした。
内線の折り返しが来たのは、それから間もなくのことだった。転生管理課の担当者によると、ひかりちゃんの家族はすでに担当獄卒と共に彼女を捜索中だという。境界路地まで迎えに来てもらえることになった。
待つ間、ぽん太はひかりちゃんに相談所の中を案内した。閻魔丸の執務机の引き出しに隠してある飴玉の場所は教えなかったが、さだばあちゃんの縫い物かごに入った小さな布の鳥を見せたら、ひかりちゃんが「かわいい」と言って喜んだ。
日が傾きはじめた頃、迎えが来た。
境界路地の外れで、若い男女が駆け寄ってきた。ひかりちゃんが「おとうさん! おかあさん!」と叫んで走り出す。その細い背中が親の胸に飛び込んでいく瞬間を、ぽん太は相談所の引き戸から黙って見ていた。
三人が重なるようにして抱き合っている。
それはとても小さな、しかしぽん太がこれまで見てきた冥界のどんな光景よりも、確かな重さを持った何かだった。
引き戸が後ろで開く音がした。
「ただいまー。ぽん太、変なことしてないでしょうね」
灯子が戻ってきていた。現世調査で日に焼けた顔が、ぽん太の赤い目を見て止まる。
「……泣いてたの?」
「ないてない」
「どう見ても泣いてる」
ぽん太は黙って路地の三人を指さした。灯子はそちらを見て、少し目を細めた。
「そっか。一人でやったの」
「……まあ」
灯子は何も言わなかった。ただ、ぽん太の巨大な背中を一度だけ、ぽんと叩いた。叩いた手が少し痛そうだったが、それには触れないでおいた。
境界路地に夕闇が満ちてくる。三人の亡者の輪郭が、転生の光の中でだんだん薄れていく。ひかりちゃんが最後にこちらを振り向いて、小さく手を振った。
ぽん太はごつごつした手を、ゆっくりと振り返した。
朔の封筒は、今日も相談所の棚の上で、未開封のまま置かれていた。