十月の朝は、三丁目に静かに降りてくる。
灯子が境界路地を抜けて現世側に踏み出すと、金木犀の香りが鼻をついた。塀の向こうから漏れてくるその甘さは、冥界のどこか乾いた空気とは全く異なる、生者の世界のにおいだ。
「必ず、何か見つけてきます」
相談所を出る前にそう言ったとき、さだは何も答えなかった。ただ静かに頷いて、薄い指先で茶碗を包んでいた。三百年もの間、その面影を胸の奥にしまってきた人間の顔は、喜びとも悲しみともつかない表情をしていた。あの顔を、灯子はなるべく正確に記憶に焼きつけておこうと思った。
喜多村義助。七十八歳。元錺職人。三丁目の角から二番目の細い路地を入って左、古びた木造家屋に独居。
それが台帳から読み取れた全てだった。
灯子はポケットに手帳を突っ込み、三丁目の朝の路地を歩いた。平日の早朝、シャッターの下りた商店が並ぶ通りは人気がなく、遠くで猫が鳴いている。昨夜の雨に濡れた石畳が朝陽を照り返し、世界全体がうっすらと光って見えた。
義助の家を確認したのは昨日のうちに済ませてある。今日の目的は、本人の様子を観察することだ。台帳に書かれた情報だけでは分からないことがある。人は生活の中にこそ、その本質を滲ませる。弁護士をしていた頃、依頼人を初めて訪ねるときはいつもそう思っていた。
細い路地に入ると、一段と空気が薄暗くなった。両側の塀が迫るようにして立ち、空はごく細い帯になる。植木鉢が几帳面に並べられた玄関先、手入れの行き届いた小さな庭。その端に、くすんだ木の表札が出ていた。「喜多村」とだけ書かれている。
灯子は立ち止まらなかった。素通りしながら横目で確認する。玄関の引き戸は閉まっていた。朝七時前、まだ出てきていない。
路地を抜けた先に、小さな神社があった。三丁目の鎮守様とでも呼ぶべき、こぢんまりとした境内だ。石畳の参道は苔むして、鳥居の赤もずいぶん褪せている。しかし掃き清められて落ち葉一枚ない参道を見れば、誰かが丁寧に守っていることは明らかだった。
灯子はその境内のすみ、公衆電話ボックスの脇に立った。電話ボックスはとうに使われていない様子で、蜘蛛の巣が張っている。灯子はそこにもたれかかりながら、神社の拝殿を眺めた。
十分ほどが過ぎた頃だ。
路地の奥から、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。
小柄な老人だった。グレーの作務衣を着て、白髪まじりの頭を少し前に傾けて歩いてくる。足元は草履で、踏みしめるたびに参道の石が小さく鳴った。しわがれた手には、白い半紙に包まれた何かを持っている。神社への供え物だろう。
灯子は息を詰めた。
喜多村義助は、台帳の情報通りの老人だった。しかし写真や文字では分からないことが、生身の姿を見ると伝わってくる。背筋の曲がり方、手の節々、歩きながらも地面に落ちる視線。年齢を重ねた体が持つ特有の、けれど穏やかな重さ。灯子は何故か、胸のどこかが締まるような感覚を覚えた。
義助は拝殿の前に立つと、持ってきた供え物をそっと棚に置いた。それから二礼二拍手一礼。丁寧に、崩れのない所作だった。
祈りが始まった。
声は聞こえない。けれど灯子には、口が動いているのが見えた。何かを繰り返している。同じ言葉を、何度も。
灯子は少しずつ間合いを詰めた。石畳の上を、音を立てないように歩く。風が吹いて金木犀の香りが揺れた。
拝殿まで五歩ほどの距離まで近づいたとき、義助の声がかすかに届いた。
「……また、逢えますように」
それだけだった。
それだけだったが、灯子の足は自然と止まった。
また逢えますように。
その言葉を、老人は誰に向けて言っているのだろう。七十八年の生涯の中で出会い、そして別れた誰かに向けて。あるいは夢の中で何度か見た、けれど現実の記憶にはない誰かに向けて。
さだの顔が、脳裏に浮かんだ。
三百年を待った女の顔が。
義助は長い祈りを終えると、ゆっくりと振り返った。灯子はとっさに電話ボックスの陰に入ろうとしたが、老人はもう灯子の存在に気づいていた。目が合った。
「早いねえ、お嬢さんも」
咎める様子は全くなかった。ただ、穏やかにそう言った。
「あ、はい。散歩の途中で」
「そうかい。いい朝だよ。こないだの雨で空気が洗われて」
義助は空を見上げた。その横顔に、何かしみじみとしたものが漂っていた。
「毎朝来られるんですか、ここに」
灯子は無難な問いを選んだ。義助は頷いた。
「もう二十年以上になるかな。なんてことはないんだよ、手を合わせるだけで。ただね、ここに来ると気持ちが落ち着く。何でかは分からんけど」
義助は少し考えるように間を置いてから、苦笑した。
「夢を見るんだよ、毎晩みたいに。知らない時代の夢。着物を着て、川のそばを歩いてる夢。そこに、女の人がいて」
灯子の全身が、微かに強張った。
「会ったことはない人なんだよ。なのに夢の中では、ずっと一緒にいるんだ。顔は、はっきり覚えていない。起きるたびに薄れていく。ただね、別れるところだけ、いつも同じで」
義助は手の甲で口元を拭うような仕草をした。その目が、少し遠くを見ていた。
「また逢えますように、ってここで祈るのは、その人のためだよ。笑うだろう、七十八にもなって」
「笑いません」
灯子は即座に答えた。自分でも驚くほど、はっきりとした声で。
義助は灯子を見て、それからまた静かに笑った。
「お嬢さんはいい顔するね」
それ以上は何も言わず、老人は草履の音を響かせて帰っていった。
灯子は境内にしばらくひとりで立っていた。秋の風が銀杏の葉を揺らしていた。
過去世の記憶が夢として残る。閻魔丸が言っていたことだ。稀にだが、繰り返す夢の形で前の生の記憶が残ることがある。全てを思い出すわけではない。断片として、感覚として、残る。喜多村義助の夢に出てくる女の人。川のそばを歩く、着物姿の、顔のはっきり見えない誰か。
それが、骨川さだでないはずがなかった。
灯子は手帳を取り出し、その場で記録を書いた。毎朝参拝。祈りの言葉。夢の話。別れる場面。さだとの記憶が過去世に刻まれて、三百年の時を超えて義助の夢に滲んでいる。二人は現世と冥界で、互いを思って待ち続けていたのだ。
手帳を閉じたとき、不意に視線を感じた。
見ると、神社の鳥居の外、路地の入り口のところに人影があった。
藤代朔だった。
紺色のジャケットを着た青年が、手に何か袋を持ちながら、こちらを見ていた。距離があったので表情までは読めない。ただ、灯子が視線を向けたことに気づくと、朔は軽く頭を下げた。驚いた様子は全くなかった。
灯子が鳥居に向かって歩くと、朔は路地の脇の、木造アパートの前に立った。色褪せた表札がかかっている。「南荘」と書かれたその建物の前で、朔は鍵を取り出した。
「ここ、あなたの家ですか」
灯子が問うと、朔はやや間を置いてから答えた。
「ええ。もう随分長くいます」
「喜多村さんのことを以前から知っていたのは、」
「近所ですから」
朔は静かにそう言った。嘘をついている様子はない。ただ、それ以上のことを語る気もないようだった。
「偶然ですよ」
そう付け加えたが、その声は奇妙なほど穏やかで、灯子には返す言葉が見つからなかった。
朔はアパートの引き戸を引き、中に入っていった。扉が閉まる直前、金木犀の香りがまた吹いてきた。
灯子は路地に立ったまま、南荘の表札を見つめた。
偶然。
その言葉の中に、どれだけの意味が隠れているだろう。喜多村義助の隣に住む藤代朔は、境界路地の常連で、生きているのか死んでいるのかもはっきりしない青年だ。さだの想い人の転生先を既に知っていた。そして今ここに、住んでいる。
偶然にしては、何もかもが揃いすぎている。
灯子は手帳を再度開き、ページの隅に一行、書き加えた。
「朔について、閻魔丸に聞く」
秋の日差しが、三丁目の路地を淡く照らしていた。