記録室は、相談所の奥の奥にあった。

 閻魔丸が「ちょっとそこに積んどくだけだから」と言いながら三百年かけて積み上げたらしい竹簡と木簡と巻物と、なぜか昭和三十年代の週刊誌が渾然一体となった部屋は、灯子がこれまで見てきたどの法律事務所の書庫よりも混沌としていた。天井まで届く棚という棚に書類が詰め込まれ、隙間から何かの骨らしきものが顔を出している。空気は古い紙とかすかな線香の匂いが混ざり合い、時間そのものが圧縮されているような重さがあった。

 灯子は腕まくりをして、棚の前に仁王立ちした。

「三十日」

 声に出してみると、思ったより軽い。だが実際はちっとも軽くない。冥界本部からの通達はすでに骨川さだに預かってもらっており、あの薄い封筒一枚に自分の行く末が書いてあると思うだけで、胸の奥に鈍い重石が沈んだままだった。

 答えを出せないなら、動けばいい。それが灯子の流儀だった。弁護士時代も、証拠が足りないときには必ず手を動かした。記録を漁り、書類を読み、事実の欠片を拾い集めた。今もその本能は変わらない。閻魔丸が「縁結び部門廃止の理由」について何かを知っていながら語らないのであれば、自分で調べるまでだ。

 棚を端から検めていくと、年代別に大まかに分類されているらしいことがわかった。もっとも「大まかに」というのは冥界の時間感覚でのことで、人間の感覚では数百年分が隣同士に並んでいたりする。灯子は棚の側面に貼られた薄紙の表示を確認しながら、縁結び係に関する記録が残っているであろう区画を探した。

 一時間ほどかけて、ようやく見つけた。

 棚の最下段、他の書類に押しつぶされるようにして、一冊の帳面が挟まっていた。表紙には「縁務係 廃止顛末録」と墨書きされている。紙は黄ばんでいるが、文字はまだ読める。灯子は床にあぐらをかいて、帳面を開いた。

 筆跡は細く丁寧だった。書いた者の几帳面な性格がにじむような字で、縁結び係の業務内容、成立件数、担当案件の概要がびっしりと記されている。灯子は無意識に姿勢を正して読み進めた。

 縁結び部門が廃止されたのは、今から約三百年前のことだった。

 当時の縁結び係は「紡ぎ役」と呼ばれ、冥界と現世の境界に立つ者として死者の未練ある縁を解きほぐし、生者との間に残った糸を適切に処理する役目を担っていた。記録によれば最盛期には十二名の紡ぎ役が在籍し、年間千件近い縁の整理を行っていたという。

 だが廃止に至った経緯が、一件の案件に集約されていた。

 灯子は息を詰めた。

 その案件の担当者は、紡ぎ役の中で最も優秀と称された「縁切り衆の要」と呼ばれた者だった。名前は帳面には記されていない。ただ「Y」という記号が用いられていた。Yは、ある生者の依頼を受けて現世に渡り、その者の縁を整えようとした。ところがYは依頼人の人生に深く関わりすぎた。縁の糸を整えるのではなく、自ら新しい縁を作り始めた。依頼人が悩むたびに傍にいた。依頼人が迷うたびに導いた。境界を越えて現世に留まる時間がどんどん長くなり、やがてYの存在そのものが現世に定着し始めた。

 その結果、境界が薄れた。

 冥界と現世の間にあるはずの膜が、Yが踏み越えた場所から綻び始めた。死者が現世に漏れ出した。生者が冥界の気配に侵され始めた。三丁目一帯で「あの世の風が吹く」と噂が立ち、冥界は緊急の封鎖措置を取らざるを得なかった。

 Yは最終的に現世に残った。冥界の記録からも消された。

 縁結び部門は全員解散。以後の再開は禁止。

 最後の一行には、こう記されていた。

「縁に深入りした者は、縁そのものになる。それは縁結びではなく、縁憑きである」

 灯子はしばらく、その一行を見つめていた。

「……縁憑き」

 呟いた声が、紙の山に吸い込まれて消えた。

 帳面を閉じて立ち上がろうとしたとき、背後で畳が軋む音がした。

「読んだか」

 閻魔丸だった。

 いつものへらへらした顔ではない。記録室の薄暗がりの中で、彼は珍しく表情を締めていた。丸い目が、帳面をまっすぐ見ている。

「いつ気づいてたんですか」灯子は帳面を持ち直して、閻魔丸に向けた。「今回の境界薄化が、これと同じパターンだって」

 閻魔丸はため息をついて、近くの木箱を引き寄せて座った。

「三丁目の境界が薄れ始めたのは、お前が来て少し経った頃からだ」

「私が原因だと言いたいんですか」

「違う」閻魔丸は即座に首を振った。「お前のせいじゃない。ただ——お前みたいな半死半生の存在が相談所に定着して、縁の糸をじかに扱い始めると、境界はどうしても揺らぐ。それが今の状況の遠因にはなっている」

 灯子は黙って続きを待った。

「三百年前のYも、最初はそうだった。半端な状態で縁に触れ続けた。善意でやっていた。誰かの役に立ちたかった。でもそれが積み重なって、境界を壊した」

「……私が同じことをしていると」

「する可能性がある、と言っている」閻魔丸は灯子の目を見た。「だから本部が三十日の期限を切ってきた。どちらかに定住させれば、境界は安定する。宙ぶらりんのままでいることが、一番まずい」

 灯子は帳面をそっと棚に戻した。手の中に、紙の感触がしばらく残っていた。

「それを最初から言ってくれればよかったじゃないですか」

「言ったら、お前どうした」

「……調べようとした、と思います」

「だろ」閻魔丸は少し笑った。けれどすぐに笑みを引き取って、また真顔に戻った。「本当のことを言う。俺はお前に現世に帰ってほしいと思っている」

 灯子は思わず閻魔丸を見た。

「三百年前のYのことを俺はよく知っている。あいつは優秀だった。縁の扱いも丁寧だった。それでも、長く居続けることで壊れていった。お前がそうなるのを俺は見たくない」

「閻魔丸さん」

「ただ」閻魔丸は人差し指を一本立てた。「お前が復活させかけている縁結び部門は、俺も必要だと思っている。Yのときと違うのは、ちゃんとした記録と仕組みがあること。そして——」

 彼は少し間を置いた。

「お前が弁護士だということだ。縁に飲み込まれるんじゃなくて、縁を論理で扱える奴が必要だった。それがずっと欠けていた」

 灯子は息を吐いた。それが称賛なのか、それとも別の何かなのか、判然としなかった。ただ、閻魔丸がここまで真顔で話したのは初めてだった。

「じゃあ、私が現世に帰ったら、縁結び部門はどうなるんですか」

「また廃止だ」

 一言だった。短く、重かった。

 記録室の外で、ぽん太がどたどたと廊下を走る音がした。続いて骨川さだの「こらー、廊下は走りませんと何度言ったらわかりますか」という叱責が飛んだ。藤代朔のくすくす笑う声も聞こえた。いつもの相談所の音だった。

 灯子はその音を聞きながら、帳面が収まった棚を見た。

 三百年前に誰かが、同じ場所で同じように迷ったのかもしれない。縁に触れる仕事は、縁そのものに引き寄せられる危うさを持っている。それでも誰かがやらなければ、整えられない縁がある。ほどかれない糸がある。

「答えはまだ出ません」灯子は閻魔丸に言った。「でも一つだけ確認させてください」

「なんだ」

「Yが最後に現世に残ったのは、誰かのためでしたか。それとも、自分が帰れなくなったんですか」

 閻魔丸はしばらく黙っていた。それから静かに言った。

「どちらでもある、と俺は思っている」

 その答えが何を意味するのか、灯子はまだうまく整理できなかった。ただ確かなことが一つあった。

 三十日の期限は、Yの轍を踏ませないための措置だ。そして閻魔丸は、灯子がYと同じ道を歩むことを、恐れている。

 廊下からぽん太の「ひええ、さだばあちゃんが怖いっす」という声が響いてきた。

 灯子は帳面に背を向けて、記録室を出た。その手には、まだ古い紙の匂いが残っていた。

笑う閻魔と、三丁目の相談所

34

冥界の縁結び記録と閻魔丸の真意

夕凪 一葉

2026-06-15

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