霧はまだ晴れなかった。

 窓の外、灯台の光が一定の間隔で海を薙いでいる。その白い弧が霧に溶けて消えるたびに、汐音はどこかで別の光のことを考えていた。三百年前に星から届き、今も地下の機械の中で息をしているはずの、あの信号のことを。

 地下受信室から戻ってきた汐音は、体の奥に熱いものを抱えたまま、一階の詰所に腰を落ち着けていた。遙の形見のランタンが卓の隅に置かれ、橙の光を静かに滲ませている。遙はもういない。けれどその光だけが、まだここにある。

 透真は向かいに座り、手元の端末を何度か操作したあと、小さく息を吐いた。

「見せていいのかどうか、正直わからない」

 彼の声には珍しく冗談の色がなかった。汐音は黙って待った。沈黙は彼女の語法だ。問い返さないことが、続きを引き出すと知っていた。

「でも、お前には知る権利があると思う」

 透真は端末を卓に置き、画面をこちらへ向けた。

 機関の内部文書だった。ページの頭に、黒いロゴマーク――翼を持つ星を象ったそれ――と、太い文字で部署名が印字されている。《星語研究管理局・第一封印調査部門》。

 汐音の目がその文字列を辿った。封印、という語が指の間に引っかかった小骨のように、喉の奥に残った。

「第一封印調査部門、ってどういう意味」

「そのまんまだよ。何かを封じることを研究している部署、ってことだ」透真は端末の画面をスクロールさせながら言った。「俺が最初にここへ派遣されたとき、任務書には《旧式受信設備の調査および無害化》って書いてあった。無害化、って言葉が引っかかってさ。でも当時は深く考えなかった。指示に従うのが仕事だって、信じてた」

 汐音は彼の言葉の裏を読もうとした。信じていた、という過去形が示すもの。今は信じていない、ということだ。

「それで?」

「それで、お前に確保命令が来た。命令書の末尾に承認者の名前があった」

 透真は画面を止め、一点を指先で叩いた。

 汐音は覗き込んだ。小さなフォントで、しかし疑いようのない明確さで、そこに名前が刻まれていた。

 《瑠璃宮クロエ・局長》。

 その名前を声に出すことなく、汐音は胸の中で一度、転がした。るりみや・くろえ。音の並びが宝石みたいに滑らかで、何か危ういものを宝石箱に収めているような、そんな名前だった。

「瑠璃宮クロエって何者なの」

「局長だ。機関の頂点に立つ人間だよ」透真は背もたれに体を預けながら言った。「ただの管理者じゃない。彼女自身が、星語りの研究者だった。それも世界でおそらく一番、三百年前の資料を読み込んでいる人間だ」

 彼は端末を操作し、別のファイルを呼び出した。今度は写真が一枚、混じっていた。

 四十代ほどに見える女性の肖像だった。白いジャケット、細い首筋、肩まで伸びた黒い髪。正面から撮られた写真なのに、なぜかその目は少し遠くを見ているように見えた。微笑んでいる。穏やかに、確信を持って微笑んでいる。その笑顔のどこかが、汐音の背筋をかすかに撫でた。

「彼女の論文が機関の創設につながったらしい」透真は続けた。「《星語りの封印とその必要性》。発表されたのが二十二年前。内容は俺も全部は読めてないけど、要するにこういうことだ。三百年前、人類は宇宙からの信号に応答しようとした。でも何らかの理由で、その通信は遮断された。クロエは、その遮断を《封印》と呼んで、それを維持することこそが人類の安全保障だと主張した」

 汐音は口を結んだ。

 セノが言っていた言葉が、浮かんできた。

 ――答えを、待ち続けている。

「セノは今も待ってると言ってた」

「知ってる」透真の声が低くなった。「そして、それを知ったうえでクロエは封印しようとしてる。つまり彼女は、誰かが待ってることを知っている。わかってて、繋がせようとしない」

 その言葉の意味が、汐音の中にゆっくりと染み込んだ。

 待っているものがいる。それを知っている者がいる。そしてその者は、繋がることを拒んでいる。

 なぜ、という疑問が生まれる前に、もっと深いところから別の問いが這い上がってきた。

 封印するのに、なぜ理由がいる? ただ怖いだけでは、あの笑顔の奥にあるものは説明できない。

「透真、クロエは何を恐れてるの」

 彼は少し黙った。珍しい沈黙だった。飄々と言葉を紡ぐ彼が黙るとき、その沈黙はいつも本物だと汐音は知っていた。

「わからない」透真は正直に言った。「でも恐れ、じゃないかもしれない。むしろ逆かもしれない。確信してる、とか。或いは——守ってる、とか」

 何を、と汐音は尋ねなかった。彼にもまだ答えがない問いだとわかったから。

 ランタンの火が微かに揺れた。外で風が強くなっている。灯台の光がまた海を薙ぎ、霧の奥へ消えた。

 透真は端末を畳み、額に手を当てた。

「俺が機関に入ったのは、星語りの研究をしたかったからだ。子供の頃、祖父から聞いた話があって——三百年前、空に星が見えた時代に、人間と何かが話そうとしていたって。それを調べたかった。機関ならできると思った」

 汐音は彼を見た。初めて聞く話だった。透真が自分自身のことを話すのは珍しい。

「でも機関がやってることは、研究の名を借りた封印の維持だった。信号の観測、受信設備の特定、そして——確保と無害化」

 最後の二語を口にするとき、透真の声はほんのわずか固くなった。無害化、という言葉が何を指すのか、汐音は考えないようにした。考えると、遙の顔が浮かびそうだったから。

「俺がここへ来たのも、任務だった。灯台に旧式受信設備があるという情報があって、それを調査して、必要なら封印する。その任務だ」

「遙さんのことも知ってたの」

 汐音の声は静かだったが、透真は一瞬、目を伏せた。

「名前は、ファイルで見た。星語りの知識を持つ島民、という記録があった。ただ……会ってみたら、ただの老人だった。病んでいて、寡黙で、孫みたいな子を育てて、燈台の光を守ってる、ただの老人だった」

 ただの、という言葉が繰り返されるたびに、その言葉が逆説的に重くなる。ただの老人ではなかったから、透真はこうして躊躇っているのだ。

 汐音はランタンを見つめた。

「封印って、いつ始まったの」

「三百年前だ。クロエの論文によれば、初代封印者がいた。記録には名前だけ残ってる。《シオ》という人物だ」

 汐音の指が止まった。

 シオ。

 音が、どこかに触れた。

「どんな人」

「わからない。記録は断片的だ。ただ、初めて星語りの信号を受け取り、そして——自ら遮断を選んだ人物だということだけ、書かれていた」

 自ら、遮断を選んだ。

 汐音の胸の奥で何かが軋んだ。セノは答えを待っている。三百年、待ち続けている。その三百年前に、誰かが遮断を選んだ。シオという人物が。

 そして汐音の名は、蒼井汐音という。遙がつけた名前だ。

 遙が、汐音という名をつけた理由を、汐音は一度も聞いたことがなかった。聞けなかった。聞く前に、遙は逝ってしまった。

 部屋の空気がわずかに変わった気がした。ランタンの火は揺れていない。でも何かが変わった。

「透真」

「何」

「クロエは今、どこにいるの」

 透真は少し間を置いた。

「確認はできないが、おそらく——」

 彼の言葉を、窓の外から来た低い音が遮った。

 霧の中で、何かが動いている。エンジン音だ。船のそれではない。もっと高く、もっと遠い、空を割るような音。

 汐音は窓に顔を向けた。霧の奥、見えないはずの空に、かすかな光点が二つ、三つ、滑っていく。

 透真が立ち上がった。その顔から、飄々とした表情が完全に消えていた。

「島に来る」と彼は言った。声が低かった。「クロエが、来る」

 灯台の光が、また海を薙いだ。白い弧は今度も霧の中に消えた。しかし汐音の目は、もう灯台の光を追っていなかった。

 シオ、という名前が、胸の中でまだ鳴っていた。まるで信号のように、一定のリズムで。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

12

瑠璃宮クロエという名前

沖野汐里

2026-05-25

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