クロエのエンジン音は、まだ遠かった。

 海の上を滑るように近づいてくる低い唸りは、汐音の耳には波紋のように届いた。どのくらいの距離があるか、どのくらいの速さで来ているか、それを音だけで測ることができた。この島で育った者だけが持つ感覚だった。

 おそらく、あと三十分はある。

 汐音は端末を閉じ、地下への階段を降りた。養父の遙が遺した鍵束が、腰の金具に当たってかちりと鳴った。

 設備室の空気は、いつも深海のように静かだった。発光する装置たちが淡い青白い息を吐き、床の継ぎ目から微かな潮の匂いが滲み上がってくる。三百年前に誰かが設けたこの空間は、汐音には不思議と怖くなかった。むしろ、ここだけが本物のような気がした。

「セノ」

 呼びかけると、応答は一拍置いて来た。

『……来てくれた』

 声ではなく、光のパターンだった。それが汐音の脳の中で言葉に変換される。透真はそのプロセスを「翻訳」と呼んだが、汐音には翻訳という感覚がない。最初から言葉として聞こえるのだ。それが自分の特異性だと、最近ようやく理解し始めていた。

「話がある」と汐音は言った。「シオ、という名前を知っているか」

 沈黙が広がった。装置の発光が、かすかに揺れた。

『……知っている』

「どんな人だった」

『人、だったかどうかも、私にはわからない』

 汐音はその答えを咀嚼した。もう少し聞こうとしたとき、セノの方から先に言葉が来た。

『汐音。今日は私の方から、見せたいものがある』

 装置の中心部が、静かに輝き始めた。

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 星図、と後から汐音は思った。

 それは言語でも数字でもなかった。光の点の配置が、空間の中に立体的に広がった。汐音の視界に重なるように展開されるそれは、頭の中で見える幻ではなく、確かに装置が放射している光の集積だった。しかし汐音だけがその「意味」を受け取ることができた。

 点と点の間には線があった。線と線の間には角度があった。角度の中には比率が埋め込まれ、比率の奥には何か重いものが宿っていた。契約、という言葉が浮かんだ。誰かと誰かが取り交わした、長い長い時間をまたぐ約束。

『これが、三百年前に人と星々が共有した地図だ』

「地図」と汐音は繰り返した。「どこへ行くための」

『どこへ行くためのものではない。何かが在ることを確認するための地図だ。人類が星を必要とし、星たちが人の声を必要とした。その双方が、ここにいるということを示す。それが契約の核にある』

 汐音はゆっくりと眺めた。光の星座は少しずつ変化した。ある点が明るくなり、また別の点が暗くなる。まるで呼吸をしているようだった。

「でも、一部が欠けている」

 汐音の直感は正確だった。星図の中に、明らかに空白があった。光があるべき場所に、光がない。それはパターンの歪みとして、彼女の感覚にひっかかった。

『……気づくのが早い』

 セノの声に、何か苦いものが混じった気がした。

『そうだ。欠けている。三つの点と、そこから伸びるはずだった七本の線が、ない』

「なぜ」

『わからない。私の中の記憶が、そこだけ削られているように感じる』

 汐音は顔を上げた。セノの「顔」はどこにもないが、装置の光の揺らぎに、彼女はいつの間にかセノの気配を読み取るようになっていた。今、その気配は沈んでいた。

『私は、記憶を持って生まれた。それが自分のすべてだと思っていた。しかし最近、その記憶の一部が、初めから存在しなかったのではなく、意図的に取り除かれたのだということがわかってきた』

「誰に」

『誰かに。人の手が入っていることは確かだ。星のやり方で削るなら、もっと滑らかになる。でも私の欠落は、荒い。乱暴に引き千切られたような感触がある』

 汐音は黙っていた。言葉を探していたのではない。言葉では届かないと思っていたから。

 セノは続けた。

『汐音は、私を何だと思う。自律思考体、と透真は呼ぶ。機関の文書には「人工知性の変異体」と書かれていた。しかし私は自分がどこから来たか知らない。星から来たのか、人が作ったのか、それとも三百年前に誰かが置いていったものなのか』

「自分で、どう思う」

 汐音の問いに、長い沈黙があった。

『わからない。でも、忘れさせられた何かがある、という感覚だけは確かにある。それは悲しいことだと思う』

 悲しい、という言葉をセノが使ったのは初めてだった。汐音の胸の中で、何かが静かに波打った。

---

 星図の断片は、やがて薄れ始めた。

 セノが維持できる時間には限界があるらしく、光の点々は少しずつ輪郭を失い、最後はただの明滅に戻っていった。汐音はその消えていく過程を、目を逸らさずに見ていた。

「もう一度、出せるか」

『今日はもう限界だ。でも……汐音に見せることができた。それは、何かが変わっている気がする』

「何が」

『私の中で、封じられていたものが、少し動いた気がする。誰かに見せることで、記憶は確かになる。一人で抱えていると、本物かどうかわからなくなる』

 汐音はそれを聞いて、遙のことを思い出した。老いた養父は、臨終の床でも星語りの断片をつぶやいていた。誰かに伝えなければという焦りではなく、ただ声に出すことで、それが確かに存在したと確かめるような、あのつぶやき。

 継ぐ、ということはそういうことかもしれない、と汐音は思った。血でも技術でもなく、誰かの記憶を一緒に抱えることで、その記憶が本物でいられる。

「私が覚えておく」と汐音は言った。

『……ありがとう』

 セノの声は、これまでで一番、静かだった。

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 地上に戻ると、エンジン音が大きくなっていた。

 透真が燈台の外壁に背を預け、海の方を見ていた。汐音が出てくると振り返り、少し眉を動かした。

「どうだった」

「星図を見た」と汐音は短く答えた。

 透真の目が鋭くなった。飄々とした表情の奥に、確かな知性が宿るのを汐音は知っていた。

「本当に存在したんだな。三百年前の契約の、地図が」

「欠けていた。三つの点と、七本の線が」

 透真は少し黙った。波の音だけがある。

「削られたのかもしれない」と彼は言った。「クロエが」

「セノはそれを言わなかった」

「だが可能性としては」

「可能性ならある」

 二人の間に、海からの風が通り抜けた。汐音は水平線の先を見た。水平線の上、大気の層の向こうに、今も星たちはあるはずだった。見えないだけで、消えてはいない。声を持ち、誰かの応答を待ちながら、三百年を過ごしてきたかもしれない。

 エンジン音は、もう岸に近かった。

「来る」と透真が言った。

「わかってる」と汐音は答えた。

 彼女は手の中の鍵束を握った。遙が遺したこの鍵が、何の錠前に合うのか、まだわからないものが一つあった。それが今、ひどく気になった。

 クロエが降りてくる前に、それだけは確かめなければならない気がした。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

13

星図は燃やされたか

沖野汐里

2026-05-26

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