夜明け前の海は、音をのみ込んで静まり返っていた。
嵐が去った跡に残るのは、潮の匂いと、打ち上げられた海藻と、濡れた岩肌を這うように走る薄い霧だけだった。透真は窓の外をちらりと見やり、それからまた遙の顔へ目を戻した。老人は昨夜の嵐のあいだじゅう意識が遠のいていたが、夜明け近くになって、ふいにその目蓋が持ち上がった。
汐音が気づいたのは透真より早かった。
彼女はずっとベッドの傍らに座っていた。眠っていなかったのかもしれない。遙の指先がわずかに動いたとき、汐音はすでにその手を両手で包んでいた。
「遙じい」
声は低く、掠れていた。それでも汐音の声はいつになく柔らかくて、透真はなんとなく部屋の隅に身を引きたくなった。老人と少女のあいだに割り込む場所が自分にはないように思えたからだ。
遙は薄く目を開けたまま、しばらく天井を眺めていた。その目はとろりと濁って、焦点が定まらないように見えた。しかし汐音の手の温もりが伝わったのか、ゆっくりと視線が降りてきた。
「……汐音」
掠れた声は、それでもはっきりしていた。老人の唇が、かすかに笑みの形に動いた。
「顔色が、悪い」
汐音は何も言わなかった。遙の手を握ったまま、ただ頷いた。眠れていないのはお互い様だろう、と透真は思ったが、口には出さなかった。
遙の視線が、ゆっくりと室内を動いた。壁を辿り、窓の外の薄明を見て、そして部屋の隅に立っていた透真のところで止まった。老人の目がわずかに細くなる。品定めするような鋭さは、もうそこにはなかった。ただ、静かに見ていた。
「暦木くん」
名前を呼ばれて、透真は思わず背筋を伸ばした。「はい」と答えてから、敬語になったことに自分で少し驚いた。
「来い」
透真は遙のベッドの反対側に進んだ。老人は汐音と透真を交互に見て、それからゆっくりと息を吐いた。酸素マスクが外れかけていたが、遙はそれを気にする様子もなかった。
「お前たちが、揃ったなら」
言葉のあいだに、長い間があった。透真は息を詰めた。
「後は、星が道を示す」
声は細く、風にほつれる糸のようだったが、一語一語は確かだった。遙はそれだけ言って目を閉じた。また眠るのだろうと透真は思った。汐音も思ったはずだ。二人ともしばらく動かなかった。
ただ、それが眠りでないことはすぐにわかった。
老人の体から、何かが抜けていくのがわかった。音ではなかった。見えるものでもなかった。けれど透真には確かに感じ取れた。部屋の空気が、ひっそりと変わる瞬間というものがある。
汐音が、遙の手を胸に引き寄せた。
それから少しの間、何も起きなかった。
汐音の肩が、小さく震え始めたのはその後だった。
透真は何も言えなかった。彼女がこんなふうに震えるのを初めて見た。いつも目の端で全てを見渡しているような、あの静かな目が、今は遙の顔だけを見ていた。唇が引き結ばれて、それから崩れた。
汐音は声を上げて泣いた。
堪えようとした形跡が、最初の一声に残っていた。それでも声は出た。喉の奥から押し出されるような、低くて切ない音だった。彼女は遙の手を握ったまま、額をその甲に押しつけて、子どものように泣いた。
透真は汐音の隣に立った。
何も言わなかった。言える言葉が、なかった。ただそこに立っていた。自分の存在が邪魔でないかどうかさえわからなかったけれど、それでもその場所から離れる気には、どうしてもなれなかった。
夜明けの光が窓から滲んできた。霧の向こうで海が白く光っている。遙の顔は穏やかだった。しわが深く刻まれた顔に、嵐の名残も苦しみの翳りもなかった。ただ静かに、眠っているようだった。
汐音はしばらく泣いていた。
透真は壁に手をついてそれを聞いていた。自分の奥の、普段は蓋をしている場所が少しずつ開いていくような感覚があった。三年前の夜のことを思い出した。藤埜が死んで、自分は泣かなかった。研究室の前の廊下で壁に背中を預けて、ただ天井を見上げていた。泣けなかったのか、泣かなかったのか、今でもわからない。
汐音の泣き声は、少しずつ静かになっていった。
波の音がまた聞こえ始めた頃、汐音はゆっくりと顔を上げた。目が赤く腫れていた。頬に涙の筋が残っていた。それでも彼女の目は、透真をまっすぐに見た。
「透真」
名前を呼ばれた。苗字ではなく、名前で。汐音がそう呼んだのは初めてだった。
「うん」と透真は答えた。
汐音は何も続けなかった。けれどそれでよかった。言わなくてよかった。二人ともそれを知っていた。
そのとき、燈台の灯りが点いた。
自動点灯の時間にしては早すぎた。電力系統はまだ完全に復旧していないはずだった。それなのに燈台の灯りは、一度だけ強く輝いた。
窓の外の霧が、瞬時に白く染まった。海面に光の筋が走った。それは通常の回転灯とは違う輝き方だった。鋭く、まっすぐに、どこか遠い場所へ向けて放たれるような光だった。ほんの数秒のことだった。それから灯りは消えて、また薄明の霧の中に戻った。
透真と汐音は窓の外を見ていた。
透真の背筋に、冷たいものが走った。恐怖ではなかった。もっと深いところを揺さぶるような、なんと言えばいいのかわからない感覚だった。
「遙じいが、点けたわけじゃない」
汐音が静かに言った。
「わかってる」
透真は答えた。
二人とも、その光が何を意味するのかはまだわからなかった。ただ確かなことが一つあった。遙が最後に残した言葉は、願いでも慰めでもなかった。あれは、宣告だったのだと透真は思った。道は既に始まっていると、老人は知っていた。
汐音が遙の頬にそっと触れた。それから、まるで灯台守が夜ごとそうするように、老人の目蓋を静かに閉じた。
「行かなきゃいけない」
汐音は遙の顔を見たまま言った。声は震えていなかった。
「うん」と透真は言った。「わかってる」
行かなければならない場所がある。取り戻さなければならないものがある。遙が三百年の沈黙の向こうに繋ごうとしていたもの。藤埜が命と引き換えに守ろうとしていたもの。セノが削除される前に、断片のまま渡してくれたもの。
それはまだ、二人の手の中にあった。
窓の外で、海が光っていた。霧の奥で、消えたはずの星の場所を、透真はなんとなく知っているような気がした。見えなくても、そこにあるはずだった。三百年、声を待ち続けていたはずだった。
燈台守はもういない。
けれど灯りはまだ、この海の上にあった。