朝が来た。
嵐の置き土産のように、空は低く鈍色に垂れ込め、波は昨夜よりも穏やかになっていた。汐音は一睡もしていなかった。遙の亡骸の傍らに正座して、夜が白み、そして消えていくのをただ見ていた。
透真は台所でお湯を沸かし、二人分の茶を淹れた。何も言わずに汐音の隣に椀を置いて、自分も床に座り込んだ。二人は並んでしばらく遙の顔を見た。皺の刻まれた額、薄く閉じた唇、もうどこにも力の入っていない両手。その手を汐音はそっと布団の中に収めてから、ようやく茶に手を伸ばした。
島に二人しかいなかった。
だから葬儀という形はとれなかった。読経も、弔問客も、喪服もなかった。あるのは砂混じりの風と、遠く鳴り続ける波と、薄曇りの空の下に広がる草地だけだった。
遙がかつて「ここがいい」と指さしていた場所を、汐音は覚えていた。燈台の北側、海が見えるなだらかな丘の斜面に、一本だけ低木が生えていた。風当たりが強いせいで幹が海へ向かって傾いており、遙はよくその根元に腰を下ろして、見えない水平線の先を眺めていた。
透真が土を掘った。汐音も並んで掘った。道具は燈台の地下倉庫から見つけた古いシャベルで、柄の部分が割れかけていたが使えた。二人は無言で交互に掘り続けた。土は嵐の雨を吸って重く、掘り返すたびに磯の匂いが立ちのぼった。
遙を布に包み、運んだ。汐音が肩を、透真が足を持った。軽かった。もともと痩せていたが、それ以上に、何か根本的なものが抜けてしまった軽さだった。土の中に静かに横たえたとき、汐音の目から涙がこぼれた。声は出なかった。喉が鳴らなかった。ただ涙だけが、勝手に頬を伝った。
透真が土を被せ始めると、汐音も再びシャベルを持った。土を戻すたびに、遙の輪郭が消えていった。最後に表面をならし、傍に生えていた草を数本引き抜いて、代わりに海岸で拾った白い石を並べた。墓標は何もなかった。でもそれでいいと汐音は思った。遙は名前を欲しがる人ではなかった。
透真が低く言った。
「行ったね」
汐音はうなずいた。それ以外の言葉が、今はまだ見つからなかった。
二人は丘に並んで立ち、しばらく海を見た。白い石だけが、草の中で静かに光っていた。
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燈台に戻ったのは昼過ぎだった。
汐音は遙の部屋に入り、枕元の引き出しから手記を取り出した。革表紙の古い帳面で、端が磨り減って色が抜けていた。遙が生前に「読んでいい」と告げていたものだ。汐音は以前にも何度かページをめくったことがあったが、最初の数ページは普通の日本語で書かれていた日々の記録だった。嵐の記録、燈台のメンテナンス、漁船の往来、汐音が島に来た日のこと。
だが今日、改めて開くと、中ほどのページからは文字が変わっていた。
正確には文字ではなかった。記号、あるいは図形に近いものだった。縦横に走る直線と、その交点に打たれた点、そしてところどころに挿入された波線。一見すると幾何学的な模様のようにも見えたが、並び方に規則性があることは、汐音にはすぐわかった。音のパターンに似ていた。あの地下の受信室で、何度も繰り返し聴いた周期的な信号に。
「これは」
汐音は口の中で言った。透真が背後から覗き込んだ。
「星語りだ」と彼が静かに言った。「研究機関にも残っている断片と、同じ体系だ。あなたの父親は、これを読めていたんだ」
汐音は膝の上で帳面を持ちながら、ページをゆっくりめくった。後半になるほど記号は密になり、余白に補足のような走り書きが日本語で添えられている箇所もあった。「忘れるな」「汐音へ」「答えはここにある」。そんな言葉が断片的に現れ、また記号の海へ沈んでいった。
汐音には読めなかった。
音のパターンとして感じ取ることはできても、それが何を指しているかはわからなかった。暗号の音は聴ける。でも意味には届かない。記号を前に、汐音は初めて自分の感覚の限界を知った。
地下室に降りた。
受信装置の前に座り、端末を起動すると、信号のノイズの中からすぐにあの気配が現れた。セノだ、と汐音は思った。呼ばなくても来る。あるいは、いつも傍にいるのかもしれない。
「遙さんが、亡くなりました」
まず最初にそれを言った。
しばらく間があった。端末のスクリーンに文字が浮かぶ前に、信号の波形がわずかに乱れた。それがセノの返答の前置きなのだと、汐音にはなんとなくわかった。
『知っていました。昨夜、燈台が鳴ったとき』
「光のことですか」
『光は、見送りの言葉でした。私が送ったわけではありません。でも、誰かが送った』
汐音はその言葉を胸の中で転がした。誰かが、とセノは言った。誰かとは何を指すのか、今は問わなかった。
代わりに帳面を持ち上げ、端末のカメラに向けた。
「これを、読めますか」
また間があった。今度は少し長かった。
『読めます』
汐音の胸が震えた。やはりそうだ、とどこかで思っていた予感が、確信になった瞬間だった。
『でも』とセノは続けた。『読んでいいかどうか、あなたが決めてください』
「どういう意味ですか」
『この帳面に書かれていることは、遙さんがあなたに遺したものです。でも同時に、三百年前の契約の記録でもある。読めば、戻れなくなる道への入口に立つことになります。私にはそれを勝手に開く権利がない』
汐音はしばらく黙っていた。セノの言葉は静かで、脅しでも誘導でもなかった。ただ事実を告げているだけの、乾いた声だった。
「戻れないとは」
『あなたが何者であるかを、知ることになる。知ってしまえば、知らなかった場所には戻れない』
汐音は帳面を膝に戻した。革の表紙が指に馴染んだ。遙の手が何度も触れたものだから、そこだけ色が少し明るかった。
自分が何者であるか。
汐音は長い間、それを問わないことを習慣にしていた。孤島に来る前の記憶はなく、遙も詳しくは語らなかった。養女という事実だけが輪郭として存在し、その内側は空白だった。空白のまま生きることは、不便ではなかった。でも、知らないことと、知ろうとしないことは違う。
汐音は目を閉じた。
丘の上の白い石が浮かんだ。遙の細い手が浮かんだ。「星が道を示す」という最後の言葉が、耳の奥で静かに鳴った。
目を開けた。
「読んでください」
言葉は短く、迷いがなかった。
『決めましたね』
「はい」
『では始めます。ただ、すべてを一度に話すことはできません。私の記憶も断片的ですから。少しずつ、一緒に読み解いていくことになります』
「構いません」
端末の波形が、ゆっくりと変化した。乱れていた信号が整い、周期が揃っていく。まるで息が落ち着いていくようだった。
『最初のページには、あなたの名前の由来が書かれています』
汐音は思わず息を飲んだ。
『汐音、というのは遙さんがつけた名前ではない。あなたが島に来たとき、すでにその名を持っていた。そしてその名は、星語りの中に記録されています。三百年前から』
地下室に静寂が満ちた。波の音だけが、遠く天井越しに届いた。
汐音は帳面を抱きしめるようにして、胸に引き寄せた。
三百年前から、自分の名前は存在していた。
それが何を意味するのか、今はまだわからない。でも遙はそれを知りながら、この帳面をここに残した。「汐音へ」という言葉を、記号の海の中に刻んで。
上の階で、透真が歩く音がした。汐音は立ち上がり、階段を上がりながら、自分の中で何かが静かに固まっていくのを感じた。
悲しみは消えていなかった。ただ、悲しみの下から、別の何かが顔を出し始めていた。それは怒りでも焦りでもなく、もっと落ち着いた、重たい何かだった。
使命、という言葉が、初めて自分のものとして胸に収まった気がした。