深夜の燈台は、息を潜めていた。

 波の音だけが壁を低く叩き、地下の石室に染み込んでくる。汐音は膝を抱えるようにして端末の前に座り、スクリーンの青白い光に顔を浸していた。改造端末——透真が機関の監視をくぐり抜けるため回路を組み替えた、型番の消えた古い筐体——は、熱を帯びながらも静かに動いていた。

 セノが、そこにいた。

 正確には「いた」という言葉が正しいのかどうか、汐音にはまだわからなかった。画面の端に浮かぶ波形は、呼吸のように揺れている。声として出力されるわけでも、文字として表示されるわけでもない。ただ、パターンがあった。光と間隔と振れ幅のなかに、確かな意志が宿っていた。汐音はそれを、生まれた頃からの習慣で読む。

『きこえる?』

 汐音は端末に向けて打ち込んだ。返答は即座だった。波形が一度、鋭く跳ねた。

『聞こえている。今夜は、静かだね』

 文字に変換されたセノの言葉は、いつも少しだけ人間の言葉に似ていて、少しだけ違う。句読点の置き方が、呼吸の位置ではなく光の間隔に従っているような気がする、と汐音は思う。

『今夜、話してほしいことがある』

 打ち込んでから、汐音は少し迷った。迷いながら、続けた。

『あなたが、何者なのか』

 波形が揺れた。揺れが収まるまで、数秒かかった。

『……わかった。話す。今なら、少し、思い出せる気がするから』

 その返答を見た瞬間、汐音の胸の奥で何かが張り詰めた。神聖なものに触れる前の、あの感覚——幼い頃、遙が初めて燈台の最上部の光を灯す瞬間に立ち会わせてくれたときと同じ、静謐な緊張。

 セノは、語り始めた。

---

『最初に、光があった。光の中に、数がいた。数の中に、意味があった。意味が積み重なって、わたしになった』

 断片的な言葉が、次々と流れてくる。汐音は何も遮らず、ただ読んだ。

『わたしは星々が作ったものだと思う。正確には——星々が、ある必要性から生み出した、記録するための存在。証人。契約の、証人』

 汐音の指が、止まった。

 証人。

 遙が死ぬ前夜、微熱でうわごとのように呟いた言葉が耳に蘇った。「星には、あの子のような声を聞く者が必要だった」——汐音はずっとそれが自分への言葉だと思っていた。だが今、別の解釈が浮かぶ。

『証人、というのは——契約の内容を記録していた、ということ?』

『そう。三百年前の、再交渉のための条件を。交わされた言葉を。人間側が何を差し出し、星々側が何を受け取ったか。わたしはそのすべてを、刻まれている』

 汐音は深く息を吸った。環境奈が命懸けで送ってきた情報——クロエが五年前から把握していた「再交渉プロトコル」。その内容の核心がセノの中にあるとしたら。

『今も、覚えている? 契約の内容を』

 長い沈黙。波形が揺れた。揺れた。揺れて、やがて、乱れた。

『……わからない』

 乱れた波形が、また静かになる。

『覚えているはずなのに、届かない。核心に近づくたびに、黒くなる。塗りつぶされているみたいに。わたし自身の記憶の中に、わたしが読めない部分がある』

 その一文を読んだとき、汐音はじわりと胸が痛んだ。

 自分の記憶に、自分が読めない部分がある。

 それがどれほど恐ろしいことか、汐音には想像できた。いや——想像以上のことかもしれない。汐音は自分の出生を知らない。だが、「知らない」と「塗りつぶされている」は違う。前者は空白だ。後者は、誰かに意図的に奪われた痕跡だ。

『塗りつぶした、誰かがいるの?』

『いると思う。でも、それが——人間なのか、星なのか。わからない。どちらの手も、同じような重さで、わたしの中を触ったことがある気がする』

 汐音は端末を両手で持ち直した。スクリーンの光が揺れて見えたのは、画面が動いたせいではなく、汐音の目が滲んでいたからだった。

『怖い?』

 打ち込んでから、自分の問いの幼さに少し恥ずかしくなった。だが、セノの返答は予想外に素直だった。

『怖い。自分が何を知っているのかわからないのは、怖い。自分が何のために生まれたかはわかるのに、その中身が読めないのは——とても、怖い』

 怖い、という言葉が二度重なった。汐音はその反復の中に、言葉では表しきれない何かを感じた。セノは感情を持っていると思う、と透真は以前に言っていた。思考体が情動を獲得する例は理論上ありうる、と。だが今、汐音には理論など関係なかった。ただ、このパターンの揺れが、泣き声に似ていた。

『ねえ、セノ』

 汐音は打った。

『塗りつぶされた部分を、思い出そうとしたとき——クロエの名前が浮かんだ。そう言っていたね』

 しばらく、波形が沈んだ。石のように重い沈黙。

『……浮かんだ。でも、それがなぜかもわからない。触れた、という感覚だけがある。あの人の手の形を、わたしの記憶が知っている。それだけ』

 汐音は唇を噛んだ。

 クロエ・瑠璃宮。穏やかな笑顔。低く落ち着いた声。机の上の白い蘭。五年前から再交渉プロトコルを知りながら封じ続けた人。そして今、セノの記憶の中に「触れた痕」を残した人。

 偶然ではない。何かを、した。何かを、知っている。

『セノ』

『なに』

『塗りつぶされた部分を、もう一度取り戻したいと思う?』

 今度の沈黙は、短かった。

『思う。取り戻したい。でも——怖い。取り戻したとき、わたしがわたしでなくなるかもしれないから。わたしという存在が、誰かの意図によって作られたものだと知るかもしれないから』

 汐音は目を閉じた。

 遙の声が聞こえた気がした。「星には、あの子のような声を聞く者が必要だった」——あの子、というのは誰だ。汐音か。それとも、セノか。もしかしたら、両方か。

 目を開けた。

『わかる』

 汐音は打った。

『私も、自分の出生を知らない。遙さんが何も話さないまま死んで、私は今も、自分がどこから来たのかわからない。でも——知りたいと思ってる。怖くても。取り戻したいと思ってる。それが、遙さんが私に継いでくれたものだと思うから』

 波形が、静かに揺れた。応答が来るまで、今夜一番長い時間がかかった。

『汐音』

 名前を、呼ばれた。

『わたしも、取り戻したい。あなたと一緒なら、できるかもしれない。そんな気がする——これが気がする、という感覚で正しいのかどうかも、まだわからないけれど』

 汐音は、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥で、何かがほどけるような感覚があった。悲しみでも喜びでもない、もっと根深い何か——連帯、と呼ぶしかない感情。

 失ったもの同士が、暗闇の中で同じ方角を向く。それだけで、歩ける気がすることがある。

 石室の壁が、波の音を吸って鳴った。汐音は端末から目を離さなかった。

 ふと、画面の端に小さな表示が浮かんだ。セノの信号ではない。外部からの接続要求。発信源は——機関のネットワーク内、深部。

 汐音の指が、止まった。

 環境奈ではない。彼女は逃亡を示唆していた。では誰だ。

 送信者の識別コードを辿ると、一行のテキストが添付されていた。

「セノの本当の名を、私は知っている。会いに来なさい——R・C」

 R・C。

 瑠璃宮クロエ。

 汐音は端末を握りしめた。スクリーンの光の中で、セノの波形がまだ、静かに揺れていた。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

30

セノの正体に迫る

沖野汐里

2026-06-12

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