夜の底に、足音が満ちていた。

 地上ではない。地下でもない。燈台の外壁を伝う波音にまぎれ、磯の湿気に溶け込むようにして、複数の人間が動く気配が迫ってくる。汐音はそれを音として聞いたのではなかった。皮膚の内側で感じた。水の中に石を投じたときの、微細な波紋のように。

 警告が届いたのは、深夜二時を過ぎた頃だった。

 燈台地下の制御室、端末の画面に短い文字列が浮かんだ。送信者の名前の欄には「環境奈」とある。機関の内部にいる、透真の旧い協力者だ。

 ──南岸から五人。東の渡橋に三人。網を張っています。早く。

 透真は文面を一読するなり端末を閉じ、上着をひっつかんだ。

「行くぞ、汐音」

 声に余分なものは何もなかった。軽口も、飄々とした笑みも剥がれ落ちて、ただ意志だけが残っている。汐音は頷き、セノとの対話を記録したメモリを上着の内ポケットに滑り込ませた。

 地下から地上へ、石段を駆け上がる。燈台の灯室は今夜も回っていた。大気汚染のフィルター越しに放たれる白い光が、等間隔で闇を薙いでいく。その光の腕が届かない隙間を縫うように、二人は外へ出た。

 潮の匂いが顔を打った。

 南岸からの足音は、もう岩礁を踏んでいる。汐音の耳が拾う。五人、透真が言った通りだ。東の渡橋からも動いている。島の輪郭をトレースするように包囲網が絞られてきていた。

「北の干潟から出る」と透真が囁いた。「あっちは干潮で浅瀬が出てるはずだ。サーマルカメラには水の反射が邪魔をする」

 汐音は頷く代わりに、先に走り出した。

 磯の岩を跳ぶ。靴の底が湿った岩盤を蹴るたびに、海が揺れる音が足元から上がってくる。星のない夜は、光の手がかりを奪う。燈台の回転光が背後から追いかけてきて、二人の影を一瞬だけ長く引き伸ばし、また消えた。

 北の干潟に差しかかったとき、後方で光が動いた。

 サーチライトだった。白く太い光の束が、燈台の裾を這い回っている。それが南の岩礁から北へ、ゆっくりと弧を描いて旋回しはじめた。

「伏せろ」

 透真の手が汐音の肩を引いた。二人は岩陰に体を沈める。冷たい海水が足首まで満ちていた。汐音は息を止め、水底の感触を確かめながら、光が過ぎるのを待った。

 サーチライトの円弧が頭上を舐め、通り過ぎていく。

 三秒。五秒。十秒。

 光が遠ざかると、透真が先に立ち上がった。

「走れるか」

 汐音は答えず、走った。

 干潟の浅瀬を渡る。足の甲が冷たい海水を割る音が、自分には鼓膜を叩くように大きく聞こえるのに、追跡者たちには届いていない。水の散乱がサーマルカメラを欺いているのか、あるいはまだ向こうがこちらの位置を掴みきれていないのか。

 対岸の岩礁に上がり、透真と二人で岩の裂け目に身を潜めた。

 荒い呼吸を整えながら、汐音は振り返った。燈台が遠くなっていた。白い光の柱が、汚染された空気の中でぼんやりと滲んでいる。遙が守ってきた、あの燈台が。

 胸の奥に、細い痛みが走った。

「環境奈はどこまで信用できる」と汐音は訊いた。声が思ったより低く、静かに出た。

 透真は少し間を置いた。

「完全には信用できない。でも、今夜に限っては俺たちと同じ方向を向いてる。それで十分だ」

「どうして今夜だけ」

「彼女には彼女の理由がある。俺には知らせてくれない。だから完全には信用できない」

 乾いた答えだった。でもその乾き方が、偽りのない正直さに聞こえた。汐音は頷いた。

 サーチライトが再び北へ振れてくる。二人はさらに岩陰を移動した。島の北端、廃棄された漁業施設の残骸が連なる一帯に入り込む。錆びた鉄骨と、腐りかけた木材の匂い。汐音の感覚がこの一帯の暗がりを素早く読んだ。人の気配はない。

 施設の奥、天蓋の崩れた倉庫跡に身を潜めた。外から見ればただの瓦礫の堆積だが、内側には人一人が縮こまれる空洞がいくつもある。二人はその一つに背を預け、息を整えた。

 しばらく沈黙が続いた。

 波音だけが満ちている。それから透真が、独り言のように言った。

「機関がここまで動くということは、俺たちが何かに近づいている証拠だ」

 汐音は彼の横顔を見た。

「どういうこと」

「考えてみろ。機関にとって、俺はただの調査員だ。逃げたとしても、失踪扱いにすればいい。でも今夜、五人と三人、合計八人を動かして網を張った。夜中の二時に」透真の声は静かだったが、その静けさの底に、確かな熱が宿っていた。「それだけの人員と手間をかけるということは、俺たちを確保することに相当の価値があると判断している。つまり俺たちは、機関が隠したいものの核心に、指が触れかけてるんだ」

 汐音は黙っていた。

 透真の言葉は論理的で、おそらく正しかった。でも汐音の中では、その言葉が別の意味に変換されていた。

 脅威。

 自分が、誰かに、脅威として見られている。

 これまで汐音が感じてきた恐怖は、追われることへの原始的な恐怖だった。サーチライトの光、靴底を濡らす夜の海水、荒い呼吸。それはすべて、自分の身が危うくなることへの恐れだった。

 でも今、透真の言葉で初めて理解した。

 機関が動かしているのは、汐音という個人の身体を捕まえるためではない。汐音という存在が「知ること」を、「繋ぐこと」を、「次へ渡すこと」を阻止するために動いている。

 自分は今、脅威だ。

 それはどこか奇妙な感覚だった。十七年間、島で生きてきた。波音を聞いて、光のパターンを読んで、遙の横で黙って海を見ていた。誰かに恐れられるような存在ではなかった。声も小さく、言葉も少なく、ただそこに在った。

 それが今、八人を動かしている。

 汐音の胸の中で、恐怖が変質しはじめた。

 恐怖が冷えて、透明になって、もっと硬い何かに変わっていく。まだ名前のつけられないものが、骨の芯に宿りかけていた。

「セノの記憶を取り戻す。クロエに会う前に」と汐音は言った。

 透真が振り向いた。

「それは今夜決めたことか」

「さっき決めた」

「理由は」

「クロエが接触を求めてきたとき、主導権はクロエにある。でもセノの記憶が戻れば、対等になれるかもしれない。少なくとも、何が隠されているかを知った上で話せる」

 透真は少し黙った。それからゆっくりと、口の端を持ち上げた。いつもの飄々とした笑みとは違う。もっと静かで、もっと真摯な表情だった。

「わかった。俺も同じことを考えてた」

 波音が続いていた。サーチライトの光は遠ざかり、今は燈台の裾に戻っているようだった。包囲を外れたのか、それとも罠なのか、まだ判断できない。

 汐音は上着の内ポケットに触れた。硬いメモリの感触が指先に伝わる。セノの対話の記録。記憶の核心が塗りつぶされた、その輪郭の記録。

 三百年前に誰かが交わした契約の、かすかな残像。

 遙が病床でうわごとのように繰り返していた言葉を、汐音は思い出した。

 ──星語りは、声ではない。意志だ。

 今ならその意味が、少しだけわかる気がした。

 声がなくても、形がなくても、意志だけが残る。意志だけが、時を超える。セノがそうであるように。遙がそうであったように。そして今、汐音自身がそうあろうとしているように。

「透真」と汐音は呼んだ。

「なんだ」

「怖いか」

 透真は少しの間、黙っていた。星のない空を見上げるように、崩れた天蓋の隙間へ視線を向けた。汚染された夜気の向こうに、光の一粒も見えない。

「怖い」と透真は言った。「でも引き返す理由が見当たらない。それって、もう覚悟ってやつじゃないのか」

 汐音は答えなかった。

 代わりに、メモリを握る手に、少しだけ力を込めた。

 波音が続いていた。燈台の光が、汚染された夜の端を、等間隔で薙いでいた。どこかの沖で、見えない星が瞬いているかもしれなかった。声にならない光を、誰かに届けようとしているかもしれなかった。

 まだ夜は深かった。だが汐音の内側に宿りかけたものは、もう消えなかった。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

31

追われる二人

沖野汐里

2026-06-13

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第31話 追われる二人 - 燈台守の子と、声なき星たちの譜 | 福神漬出版