廃棄端末の置かれた旧区画は、息をひそめているような静けさだった。

 地下水路から這い上がってきたとき、汐音の膝は泥と塩と疲労でひどく重たかった。透真は先を歩きながら、手持ちの照明を左右に振って安全を確認し続けていた。その光の動きに、汐音は無意識に耳を澄ます。パターンを読む。右、右、左、停止。異常なし。彼が発するすべての動作が、言葉より雄弁に状況を語っていた。

 「ここだ」

 透真が立ち止まった先に、壁面にめり込むような形で古い端末が設置されていた。正確には、設置されていた形跡だけが残っており、本体は半分が壁の中に沈んでいる。三百年の時間が、機械と建築の境界線を溶かしてしまったかのようだった。

 汐音は近づいて、指先で端末の表面をなぞった。埃の感触の下に、かすかな振動がある。まだ生きている、とは言えない。けれど、完全には死んでいない。どちらでもないもの。セノと似ている、と思った。

 「電源系が独立してるなら繋がるかもしれない」透真がひざまずいて端末の下部を調べながら言った。「古い設計の方が、かえってこういうときは融通が利く。機関のシステムと接続してないから追跡もされにくい」

 汐音はうなずいた。

 透真が作業を続けている間、汐音はふと振り返った。廊下の闇が、奥へ奥へと続いている。誰もいない。音もない。なのに、何かが変わった気がした。

 それはまず、温度として感知された。

 空気がわずかに、変わった。

 次に、音だった。

 汐音の胸元——正確には、機関から支給された旧式の受信端末が仕舞われた内ポケット——から、かすかな共鳴音が漏れた。接続要求を示すパルスではなく、もっと原始的な、呼びかけに近い振動だった。

 汐音は端末を取り出した。画面には発信者の名前が表示されていた。

 *瑠璃宮クロエ。直通回線。*

 「透真」

 声に出したのか、出していないのか、自分でもわからなかった。しかし透真はすぐに顔を上げた。汐音の表情を見て、立ち上がった。

 「何があった」

 汐音は画面を向けた。透真の顔が、一瞬固まった。そして次の瞬間には、彼の表情はすべての軽さを失っていた。

 「出るな」

 即座だった。

 「罠だ。場所を特定するための——」

 「違う」

 汐音は、自分の口から言葉が出たことに、少し驚いた。透真も驚いたようだった。二人は見つめ合った。

 「なんで断言できる」

 「声を聞いてから、判断する」

 透真は眉をひそめた。何かを言いかけて、止めた。汐音が端末の通話ボタンに触れるのを、止めることはしなかった。

 沈黙が、繋がった。

 最初に聞こえたのは、息だった。

 通信越しの息というのは、たいていノイズに紛れて消えるものだが、汐音の耳はそれを拾った。一回、二回。規則的だが、浅い。疲れている人間の呼吸だった。

 「汐音さん」

 声は、穏やかだった。

 それは汐音が予想していた「穏やかさ」ではなかった。もっと計算された、表面に張られたものではなく——すり減った穏やかさ、というべきものだった。長い時間をかけて、感情の鋭い部分がゆっくりと丸くなった人間の声。

 「聞こえていますか」

 「……聞こえています」

 「よかった」短い間があった。「こうして直接話しかけることは、規則に反します。でも今は、規則よりも大切なことがある。そう判断しました」

 透真が汐音のすぐ隣に立って、端末に耳を近づけようとしている。汐音は端末を少し傾けて、彼にも音が届くようにした。

 「私の話を聞いてほしい。それだけです」クロエの声は続いた。「敵ではない、とは言いません。あなたたちにとって私がそう見えるのは、当然のことだから。ただ——私も、星語りを守りたいと思っている。ただし、方法が違う」

 「方法が違う、というのは」汐音は言った。「封じることで、守ると言っているんですか」

 沈黙。

 長すぎず、短すぎない沈黙だった。考えている人間の沈黙だ、と汐音は思った。答えを選んでいるのではなく、どこから話し始めるか、迷っている。

 「三百年前に、何があったかを知っていますか」

 「全部は、知らない」

 「そうでしょう。誰も知らない。私でさえ、断片しか持っていない」またあの浅い息。「星語りが封じられた理由は、人類が星々との契約を拒絶したからではない。逆です。契約を受け入れようとした者たちが、いた。でも——その声は、届かなかった。あるいは、届く前に、消された」

 透真が、汐音の袖を引いた。耳元で、小声が落ちてくる。

 「誘導だ。感情に訴えて信用させようとしてる」

 汐音はうなずいた。その可能性は、わかっていた。

 同時に——クロエの声の中にある、説明のつかない何かが、汐音の感覚にひっかかり続けていた。

 音楽でいえば、長調の曲の中に一つだけ混じった短調の音。構造的には不自然でも、その音があるからこそ、曲全体が本物になる、という種類の何か。

 嘘をつく人間は、声のすべてを統一しようとする。クロエの声には、統一されていない部分があった。疲労と、そして——汐音が名前をつけるなら「悔恨」と呼ぶような、やわらかいひずみが。

 「会いたい」クロエが言った。「場所は、あなたたちが指定してください。私は一人で来ます。機関の端末も持ちません。それが信用の証明になるかどうか、わからない。でも——できることはそれしかない」

 「透真」

 汐音は透真に向き直った。

 「あなたはどう思う」

 透真は少し間を置いた。珍しいことだった。彼はたいてい、即座に言葉を出す。

 「俺は——」透真は端末を一度見て、汐音を見た。「会うべきじゃないと思う。リスクが大きすぎる。クロエが本当に一人で来たとしても、機関は彼女の位置情報を常時把握してる。俺たちが場所を教えた時点で、囲まれる可能性がある」

 「可能性は高い?」

 「五分五分、とは言えない。七、いや八割は罠だと思ってる」

 汐音はもう一度、端末に向いた。

 「クロエさん」

 「はい」

 「一つだけ聞かせてください」

 「どうぞ」

 「あなたは今、怖いですか」

 通信の向こうで、息が止まった。

 長い沈黙だった。今度は、考えている沈黙ではなかった。言葉を探している沈黙でも、ない。ただ——何かが、ゆっくりと崩れていく音のような、沈黙だった。

 「ええ」クロエは言った。「怖い。とても」

 嘘ではない、と汐音は思った。思ってしまった。

 「そうですか」汐音は言った。「少し、時間をください。返事は——後で」

 通話を切った。

 廊下の闇が、また静かになった。

 透真は何も言わなかった。汐音が何かを考えているときは、邪魔をしない。それが彼の、数少ない美徳の一つだった。

 汐音は壁にもたれて、目を閉じた。

 遙のことを、思った。養父は、燈台の光を守るとき、いつも言っていた。*光が届く場所を、信じろ。届かない場所は、まだ信じなくていい。*

 クロエの声が、届いた。

 届いてしまった。

 疲労と悔恨と、それから——汐音がまだうまく言語化できない、もう一つの感情。あれは何だ。長い年月をかけて何かを守り続けてきた人間だけが持つ、消えかけた灯のような——。

 汐音は目を開けた。

 「透真」

 「なんだ」

 「会う」

 透真は一度天井を仰いだ。深く息を吐いた。汐音への怒りではなく、状況への、というように。

 「条件はつける」汐音は続けた。「場所はこっちが決める。端末は遠ざけておく。セノには先に伝えておく」

 「……セノに?」

 「セノはクロエのことを何か知っているかもしれない。あるいは——クロエがセノを知っているかもしれない」

 透真はしばらく黙った。やがて、小さくうなずいた。

 「わかった。でも一つだけ言わせてくれ」

 「どうぞ」

 「もし俺の勘が当たってたら、全力で逃げる。いいな」

 「いいです」

 「それと」透真は珍しく、真剣な顔で汐音を見た。「お前の声の読み方が外れたことは、今まで一度もない。だから——信じる。今回も」

 汐音は、何も言わなかった。

 言葉の代わりに、端末をもう一度手の中で握った。

 クロエの声の中にあった、あの消えかけた灯のような感情に、汐音はまだ名前をつけられずにいた。でも——それが何であるかを確かめることが、次の問いになる予感があった。

 地下水路の先で、廃棄端末がかすかに震えた。セノが、目覚めようとしている。

燈台守の子と、声なき星たちの譜

33

クロエからの接触

沖野汐里

2026-06-15

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