水の音だけが、世界に残っていた。
地下水路の壁は黒く濡れていて、懐中灯の光が触れるたびに微かな銀色の粒子を弾いた。まるで星のようだ、と汐音は思ってすぐに打ち消した。星を知らないくせに、星のようだなんて言えない。
追手を三回振り切った。廃漁業施設から研究都市の外縁、そして下水管の連絡路を這いずって、ここまで辿り着いた。透真が「この都市の古い設計図を記憶してる」と言ったのが嘘でなければ、この水路は機関の監視網の死角だという。嘘でなければ、という但し書きが気になったが、今はそれを疑うより信じるほうが賢明だった。
汐音は膝を抱えて、コンクリートの出っ張りに腰を下ろした。水路の中央には細い流れがあり、泥と機械油の混じった匂いがする。天井はアーチ形で、二人が並んで立てるかどうかというほどの高さしかない。
透真は少し離れたところで、懐中灯を壁に立て掛けていた。何かを確認するように水路の先を見ていたが、やがて諦めたように振り返った。
「追っては来ない。少なくとも今夜は」
声が低かった。飄々とした軽口がない。それが逆に、彼の疲弊を示していた。
汐音は何も言わなかった。頷くことさえしなかった。ただ、膝の上に両手を置いて、手のひらの筋を眺めた。線が三本、深く刻まれている。遙が昔、「この線はな、汐音が力いっぱい何かを握ろうとした証拠だ」と言った。何を握ろうとしていたのか、幼い自分には分からなかった。今もまだ、分からない。
透真が隣に腰を下ろした。距離は肘一つ分ほど。
しばらく、二人は黙っていた。水の流れる音だけが続いた。
「怖い」
汐音が言ったのか、それとも心の中で思っただけなのか、一瞬分からなかった。でも透真が小さく息を吸ったから、声に出ていたのだと気づいた。
「怖い、のか」
「うん」
それだけ言って、また黙った。でも今度は沈黙が違った。何かを閉じる沈黙ではなく、何かを開きかけている沈黙だった。
「セノのことが怖いわけじゃない。クロエが怖いわけでもない」
言葉が、思ったより滑らかに出てきた。
「自分が、この先まで辿り着けなかったとき。遙爺の死が、ただの死で終わるとき。星語りが、また誰にも届かないまま消えるとき」
喉が痛かった。乾いているせいか、それとも別の理由か。
「それが怖い。でも止まれない」
透真は返事をしなかった。汐音は続けた。
「止まったら、全部が終わる気がして。遙爺が私に渡したものが、私のところで途切れる気がして。それだけは、嫌だ」
言い切って、少し驚いた。自分がこんなにはっきりと言葉を持っていたことに。遙と暮らした十七年で、これほど連続した文章を誰かに向けて言ったことがあっただろうか。
透真がゆっくりと息を吐いた。
「俺も、同じだ」
汐音は顔を上げた。
彼は壁を見ていた。懐中灯の光が、彼の横顔に薄い影を落としていた。いつもの軽さが消えて、むき出しになったような表情だった。
「師匠の顔を思い出すと、止まれなくなる」
「師匠」
「機関に入る前に、俺を拾ってくれた人だ。星語りの研究者だったけど、機関の方針と対立して、十年前に追い出された」
汐音は黙って聞いた。
「追い出されたんじゃなくて、消されたのかもしれない。今でも分からない。ある日、連絡が取れなくなって、機関は何も言わなかった。俺が調査員になったのは、その答えを探すためだ。最初から」
透真の声は平坦だったが、平坦であるがゆえに何かが滲んでいた。制御しているのではなく、制御すること自体に慣れ切ってしまったような、そういう平坦さだった。
「師匠はいつも言ってた。星語りは暗号じゃない、って。翻訳するものじゃなくて、聴くものだ、って。機関はそれを気に入らなかった。管理できないものを、あそこは認めない」
「セノが言ってたことと、同じだ」
汐音が呟くと、透真が初めてこちらを向いた。
「そうだな」
「セノは言ってた。自分が送った信号は命令じゃない、って。問いかけだって」
「師匠も、同じことを言ってた」
二人は少しの間、目を合わせた。懐中灯の光の中で、透真の目が普段より暗く見えた。深いというのとも違う。ただ、いつもより遠くを見ているような目だった。
「師匠が生きてるかどうか、今でも分からない。でも、師匠が追いかけていたものは、汐音が持ってる。それだけは確かだ」
汐音は何か言おうとして、やめた。慰めの言葉は要らない、と彼の声が言っていた。それよりも、ただここにいることのほうが、ずっと意味があると感じた。
水の音が続いた。
汐音はゆっくりと、手のひらを広げた。三本の線が、光の中にくっきりと見えた。
「私の出生のことを、遙爺は何も教えてくれなかった」
突然の話題転換だったが、透真は驚かなかった。
「機関の記録に、汐音の名前が出てきたことがある。子供のころの記録だと思う。詳細は見られなかったけど」
「知ってた」
「知ってたのか」
「知ってた、というより、感じてた。自分がどこかから連れてこられた、って。遙爺が拾った子供じゃなくて、誰かが預けた子供なんだろうな、って」
汐音は手を閉じた。
「でも怖くて聞けなかった。聞いたら、遙爺との時間が違う色に変わりそうで」
「変わらないと思う」
透真の声は静かだったが、迷いがなかった。
「あの人が汐音を育てたのは本当のことだろう。それはどんな事情があっても、消えない」
汐音は頷かなかった。でも、何かが胸の中で少しだけほぐれた。水路の冷たい空気の中で、体温が戻ってくるような感覚だった。
「透真」
「何」
「師匠は、星語りが聴けたのか」
透真は少し間を置いた。
「師匠は、聴けると言ってた。俺には聴こえなかったけど。俺は分析はできるけど、感じることができない。それが悔しかった」
「私も、自分が本当に聴けているのか分からない。ただ、何かが来る感じがある。光のパターンを見てると、形が見える。音を聞くと、意味より先に色が来る。それが星語りなのか、ただの特異体質なのか」
「それが星語りだよ」
断言だった。汐音は驚いて、もう一度彼を見た。
「師匠が言ってた。星語りは言語じゃない。感覚に直接届く何かだって。汐音が感じてることは、正しい」
汐音は何も言えなかった。
正しい、という言葉が、思いがけず重かった。遙が死んでから、自分の感覚を「正しい」と言ってくれた人間は、誰もいなかった。機関の調査員たちは汐音を試料のように扱い、セノは自分自身の不確かさに囚われていた。透真だけが、今、ここで、そう言った。
水の音が少し変わった。流れが速くなっている。
汐音は目を閉じた。瞼の裏に、遙爺の顔が浮かんだ。夕方の燈台の上で、海を見ていた後ろ姿。振り返らずに言った声。「汐音、光は消えない。形が変わるだけだ」。
それが星語りについてだったのか、燈台の光についてだったのか、今でも分からない。でも今は、両方について言っていたのだと思う。
「行けるか」
透真が立ち上がった。
「行ける」
汐音も立った。膝が少し痛かったが、足は動いた。
懐中灯を手に取ると、透真がその光を水路の先に向けた。暗いトンネルが続いている。どこまで続くかは見えない。
「この先に、旧区画の廃棄端末がある。機関のネットワークには繋がっていない、独立した古いシステムだ。そこなら、セノとの接続を試みることができる」
汐音は頷いた。
「セノの記憶を、取り戻す」
「そうだ。そのためにここまで来た」
二人は並んで歩き始めた。水が足音を飲み込んでいった。
汐音はふと、天井を見上げた。コンクリートの弧の向こうに地層があり、地上があり、大気汚染の厚い雲があり、その先に星がある。見えなくても、ある。消えていなくて、ただ隠れているだけだ。
それを教えてくれたのは、セノだった。
そのセノが今、断片的な記憶の中で眠っている。
汐音は手のひらを一度、強く閉じた。
前へ、進む。