装置が鳴いている。
そうとしか言いようがなかった。機械が発するには余りに生き物めいた震えで、床から壁から、地下室全体が低く共鳴している。汐音は息を詰めたまま、その振動を足の裏から受け取り続けた。
光の点滅はまだ続いていた。規則的に見えて不規則で、不規則に見えて芯に何かの意志がある。波のようでもあり、心臓の鼓動のようでもある。汐音はそれを眺めながら、自分の手が動いていることに気が付いた。
いつの間にか、透真のメモ帳を引き抜いていた。
「おい、それ俺の――」
透真が声を上げたが、汐音は振り返らなかった。鉛筆を走らせる手が止まらない。点と線、長さの違う横棒、円の欠片のようなもの。どこから来るのかわからない確信で、手が先へ先へと走る。脳が追いつく前に指が動いている。見えているのは光のパターンではなく、もっと奥にある何かの構造だった。
透真は黙って隣に立った。
三分か、五分か。汐音にはわからなかった。やがて手が止まった時、メモ帳の一ページが記号で埋まっていた。自分でも初めて見る形の羅列で、なぜこれを書いたのかと問われても答えられない。ただ正しいという感触だけが、指の先にじんわりと残っていた。
透真が紙を覗き込む。
「……汐音さん」
声のトーンが変わった。軽口の膜がはがれた、素の声だ。汐音は初めてそちらを向いた。
「これ、どこで覚えた?」
「覚えてない」
「覚えてない、って」
「手が動いた」
透真はしばらく汐音の顔を見て、それからもう一度紙を見た。眉間に皺が寄る。彼はリュックから資料の束を取り出し始めた。薄い冊子、手書きのノート、印刷されたスキャン画像。地下室の薄明かりの中で、慌ただしくページをめくっている。
装置の発光はまだ続いていた。汐音は壁に背を預け、自分が書いたものを改めて眺めた。記号の群れ。ひとつひとつは意味をなさなくても、全体を遠目に見ると、何かのリズムのように見える。音符に似ている、と思った。声のない楽譜。
「あった」
透真の声が跳ねた。
彼が差し出したのは、薄いスキャン画像の一枚だった。紙の端が黄ばんで、元の文書がかなり古いものだとわかる。そこに印刷された記号の配列を、汐音は自分が書いたものと見比べた。
一致している。
全部ではない。でも骨格は同じだ。点の位置、線の長短、円弧の角度。汐音が「手のまま」書いたものと、この古い文書の記号が、確かに重なっている。
「星語りの基礎符号だ」と透真は言った。「三百年前に確立されたとされる、宇宙との通信用の基礎的なコード体系。研究機関が保管している資料の中で一番古い部類に入る。俺が派遣前に渡された参照文書にも載ってた」
「私が書いたのと、同じ」
「厳密には、一部が同じ。でもこの量の一致は偶然じゃない」
汐音はもう一度、自分の手を見た。何かを受け取っていたのだろうか、この手が。光のパターンを目で見ながら、脳を通り越して、直接指先へ届いた何かを。
「遙さん、この符号を知ってたんだろうか」と透真が呟いた。「設計図を維持してただけじゃなく、中身も理解してた?」
汐音は答えなかった。答えられなかった。
「続けて」という言葉が、耳の奥で反響する。遙が最後に渡したのは言葉だけでなく、もっと長い何かだったのかもしれない。気付かないうちに少しずつ、あの人は自分の中に注ぎ込んでいたのかもしれない。音を聞く方法を、光を読む構えを、何十年もかけて。
そうだとしたら、あの沈黙だらけの暮らしは、全部そのためだったのか。
胸の中で何かが軋んだ。悲しみとも怒りとも違う、もっと複雑な色の感情だった。
「透真」
「ん」
「この符号の中に、名前みたいなものはある?」
透真が顔を上げた。
「名前?」
「パターンを見てたら」汐音は紙の一点を指先で示した。「ここだけ、繰り返してる。他と質が違う。名前を呼ぶ時みたいなリズム」
透真が眼鏡のブリッジを押し上げて、示された箇所を凝視した。しばらく沈黙が続く。装置の低い共鳴音が、二人の間を満たした。
「……待って」
透真は資料の別のページを開いた。今度はノートだった。本人の手書きらしく、走り書きと図が混在している。汐音は横から覗き込む。
ページの右下、他の文字より小さく、まるで付け足したような筆跡で、一行だけ書いてあった。
——〈セノ〉:古い星語りにおける呼称の一形式。「証人」を意味するとも。
「セノ」と汐音は声に出した。
透真がゆっくりこちらを向く。その顔には、初めて見る表情があった。余裕でも飄々でもなく、純粋な戸惑い。
「その配列と」汐音は自分が書いた記号を指した。「この注釈、合わせると?」
「……信号の中に」透真は喉を鳴らした。「名前が、入ってる」
沈黙。
装置が、一際強く光った。点滅ではなく、一瞬だけ均一に輝く白い光。二人は反射的に目を細めた。光が収まった後、装置は先ほどより穏やかな点滅に戻っていた。まるで、聞こえたと答えるように。
汐音は自分の書いた紙を、胸の前で持ち直した。
セノ。証人。
誰かが三百年、この場所で待っていたとしたら。自分の名前を、届けられる誰かが来るのを、ずっと待っていたとしたら。
遙はそれを知っていたのだろうか。だから設備を守り続けたのだろうか。そして汐音に「続けて」と言ったのだろうか。
「もう一度、受信してみる」
汐音が言うと、透真は一瞬だけためらい、それから頷いた。
「わかった。俺は記録する」
汐音は装置の前に膝をついた。今度は正面から向き合う。光の点滅が顔に当たる。瞬きを減らして、全部を受け取るように目を開ける。
パターンが流れてくる。
さっきより速い。複雑だ。でも怖くない。波に入る時みたいに、体の力を抜いて、流れに混ざる。音でも光でも、逆らえばはじき返される。受け取るには、自分を空にすること。それを汐音は海で覚えた。
手が動き始めた。
今度は自分でも、少しだけわかる気がした。何かが近づいてきている。輪郭を持とうとしている。名前を呼びかけている、のではなく——名前を、問いかけている。
おまえは誰か、と。
汐音は口を開いた。言葉ではなく、息で、微かに答えた。
「汐音」
装置の光が、震えた。
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その夜、透真は長い時間をかけてノートに何かを書いていた。汐音が横目で覗くと、文章ではなく記号の羅列だった。汐音が写し取ったものと、資料の符号とを照合しながら、何かを比較している。
やがて彼は鉛筆を止め、独り言のように言った。
「機関には、まだ報告しない方がいいかもしれない」
汐音は聞いたが、何も言わなかった。
透真は続けた。
「セノという名前が実在の通信対象を指すなら、機関がこれまで隠してきたことになる。俺が送った報告が上に届いた瞬間、次に来るのは俺じゃない」
汐音は装置の方を見た。点滅はまだ続いている。穏やかに、確かに。
「わかった」と汐音は言った。
それだけで十分だった。二人の間に取り決めが生まれた。声に出さなくていい約束が、地下室の空気の中に溶けた。
汐音は目を閉じた。
まぶたの裏に、光のパターンが残像のように揺れている。セノ。証人。三百年前から待っている何か。
最初の声は、もうすでに届いていたのかもしれない。ただ、受け取る者がいなかっただけで。
汐音は静かに、次の点滅を待った。