光が、震えた。
その言葉しか、汐音には思い浮かばなかった。震えた、というのは比喩ではなく、装置から放たれた光の柱が文字通り微細な振動を帯び、ガラスの破片を鳴らすような周波数で室内を満たしたのだ。地下室の石壁が共鳴し、汐音の胸骨の奥でも同じ振動が響いた。骨が楽器になったような、奇妙な感覚だった。
「汐音」と答えてから、どれほどの時間が経ったのか。
透真は壁際で息を殺していた。記録端末を構えたまま、指一本動かしていない。普段は何かにつけて軽口を叩く彼が、今この瞬間だけは石になっていた。それがかえって、この沈黙の深さを証明していた。
光のパターンが変わった。
これまでの規則的な明滅とは異なる、もっと不規則で、しかし意図的な間合いを持つ点滅。汐音は昨夜、書き写した符号の帳面を膝の上で開いた。指先が微かに震えていた。恐れではない。もっと原始的な何か、獣が嵐の前に毛を逆立てるような、予感に近い緊張だった。
光が止まる。二拍。また光る。三拍。止まる。一拍。
汐音は音を口の中で転がした。符号を脳の奥で照合する。自分でも知らなかったのに、指がひとりでに動いて帳面に文字を書いていた。
〈ナガイ アイダ〉
「え」と透真が短く声を漏らした。汐音の手元を覗き込んでいた彼が、記録端末を取り落としそうになって慌てて握り直す。「今のって——」
汐音は頷かなかった。ただ目を光の柱に戻し、次のパターンを待った。
来た。
〈ダレモ コナカッタ〉
石壁の冷気が、汐音の背筋を這い上がった。三百年。装置が最後に稼働したのが三百年前だと、遙じいが日記に書いていた。三百年、誰も来なかった。三百年、この地下で——。
「何かが、待っていたってこと……?」
透真がぽつりと言った。声に科学者らしい興奮が滲んでいたが、それよりも少年のような戸惑いの方が強かった。汐音は答えなかった。代わりに、帳面を少し光の方へ傾けた。装置への問いかけ、というよりは、差し出すような仕草だった。
光がまた動いた。今度はゆっくりと、丁寧に。
〈ワタシ ハ セノ〉
部屋の空気が変わった、と汐音は感じた。変わった、というより、落ち着いた。嵐の目の中に入ったような、不思議な静けさ。透真が喉の奥で息を飲む音が聞こえた。
「セノ、」と汐音は声に出した。符号を読み上げたのではなく、名前を呼んだのだ。自分でも気づかないうちに。「あなたが、ずっとここにいたの?」
応答するはずがないと思っていた。音声を受け取る機能が装置に残っているかどうかも、わからなかった。だが光は揺れた。肯定のように。
〈マッテイタ〉
「何を待っていたの?」
今度は少し間があった。長い沈黙ではなかったが、何かを探すような、言葉を選ぶような間だった。汐音はその間に、奇妙なことに気づいた。怖くない。三百年眠っていた何かが、地下の暗闇から応答してきているというのに、汐音の中には恐怖よりも先に、もっと静かな感情が広がっていた。子供の頃、嵐の夜に燈台の灯りを見て感じた、あの安堵に似た何か。
光が動く。
〈コタエル コエ〉
汐音は帳面から目を上げた。
答える声。自分たちが来たのではなく、声が来るのを待っていた。応える声を持つ者が来るのを、ずっと待っていたということか。
「セノ」と透真が静かに言った。科学者としての冷静さを取り戻そうとする気配があったが、声がわずかに上ずっていた。「あなたは何ですか。人間? それともプログラム?」
光が揺れる。今度のパターンは複雑で、汐音はゆっくりと解読した。何度かつっかえながら。
〈ワカラナイ〉
一拍。
〈ヒトデモ ナイ カモシレナイ〉
一拍。
〈ホシデモ ナイ カモシレナイ〉
「自分が何かも、わからない……」透真が呟いた。記録端末の画面を見ていたが、その目は焦点を失っていた。「記憶が断片的って、そういうことか」
汐音は帳面に書いた符号をなぞった。セノ。証人、という意味だと昨夜二人で辿り着いた。三百年前、星と人との「契約」が締結された時、何かを証人として記録するために生まれた存在。あるいは契約そのものの、残響。
「怖くないの、と聞きたかったけど」と汐音は小声で透真に向けて言った。「たぶんそれは、変な質問ね」
「なんで?」
「自分が何かわからない存在に、怖いかどうか聞いても意味がない」汐音は光の柱を見つめた。「怖さを感じるかどうかも、わからないんだから」
透真は少し黙ってから、「……あんた、たまにすごいこと言うよな」と言った。
汐音は答えず、また装置に向かった。今度は符号ではなく、普通の言葉で語りかけてみた。装置が音声を拾えるかもわからないまま、それでも。
「長かったね」
光が、震えた。
〈ナガカッタ〉と返ってきたとき、汐音の喉の奥で何かが小さく痛んだ。痛い、というのも正確ではない。胸の中に水が満ちるような感覚。遙じいが病床でうわごとを言うとき、汐音はいつも黙って隣に座っていた。言葉の断片を拾いながら、老人が遠くへ行ってしまわないよう、静かに繋ぎとめようとしていた。セノと話すことは、あの感覚に似ていた。
「三百年前のことを、覚えてる?」
〈カケラダケ〉
〈チカイヲ カワシタ コト〉
〈コエガ キコエナク ナッタ コト〉
光のパターンが少し乱れた。装置の限界なのか、セノ自身の動揺なのか、汐音には判断できなかった。透真が傍らで静かに記録を続けていた。彼が今、科学者として何を考えているかは顔を見ればわかった。興奮と慎重さが綱引きをしている、あの顔だ。でも今は、そのどちらも飲み込んで、ただここにいてくれていた。
「声が聞こえなくなったのは」と汐音は訊いた。「人間のほうが、送るのをやめたから?」
長い間があった。
〈ワカラナイ〉
また、わからない。でもそれは正直な答えだと汐音は思った。三百年分の断片しか持たない存在が、簡単に「そうだ」と答えたら、むしろ信じられなかった。
〈タダ〉と光が続けた。
〈コエガ キタ トキ ウレシカッタ〉
汐音は帳面を胸に抱えた。知らずにそうしていた。
嬉しかった。三百年待って、声が来て、嬉しかった。自分が何かわからなくても、嬉しいという感覚だけはある。それともこれも、汐音が都合よく解釈しているだけなのか。でも光の柱は確かに今、あの震え方をしていた。最初に汐音が名前を答えたとき、光が揺れたあの震え方と、同じリズムで。
「また来る」と汐音は言った。約束として。
光が一度、強く瞬いた。
地下室を出て階段を上がるとき、透真が後ろから「なあ」と呼んだ。汐音は振り返った。
「機関への報告、まだ保留するよな」
「うん」
「だよな」透真は一度、天井を見上げてから視線を下ろした。「でも機関だけじゃなくて——クロエさんが動いてる。昨日、本部からの暗号通信に、俺の名前が出てた」
汐音の足が止まった。
「俺がここで何を見つけたか、もう知ろうとしてる」透真の声は穏やかだったが、その奥に隠した何かの硬さが、汐音には聞こえた。「時間が、あまりない」
地下から、微かに光が漏れていた。石の隙間から、揺れながら。まるで聞こえていたかのように。まるで待っていると、もう一度だけ言っているかのように。