夜明けの光が廃園に差し込む少し前、糸子は目を覚ました。
眠りは浅かった。枯れた蔦に囲まれた石造りの回廊で膝を抱えたまま、どこかで夢を見ていたような気がするのに、内容は何も残っていなかった。もっとも、記憶を売り払った身では、夢さえ砂のようにこぼれていくのかもしれない。それが悲しいのか、それとも今はまだどうでもいいのか、その判断すらうまくできなかった。
代わりに昨夜咲かせた花のことを考えた。
針を通した瞬間の感触。糸が布の繊維に絡まり、ぴんと張り詰めて、それから何かが弾けるように解けていく感じ。廃園の隅々に広がっていった白い花びら。継ぎ接ぎ公爵が息をのんだあの一瞬。
あれは自分にできることだ、と思った。名前はなくても、過去はわからなくても、あれだけは確かに自分の手の中にあった。
公爵はまだ回廊の反対側で眠っていた。正確には眠っているように見えた。体中に縫い合わされた無数の布切れが、夜明け前のほの暗い空気の中でかすかに揺れている。他者の記憶を縫い付けて存在を保つ、と聞いたとき、最初はどういう意味なのか理解が追いつかなかった。今もまだ完全にはわかっていないが、それでも糸子は彼の存在が奇妙に安心できる何かを持っていることを感じていた。互いに欠けたもの同士だから、かもしれない。
空が白み始めた頃、廃園の入り口の方から足音がした。
軽くて、リズムがある。跳ねるような歩き方。
糸子が立ち上がるよりも先に、錆びた鉄門を押し開く音がして、そこに人影が現れた。
「あら、起きてたの。それとも眠れなかった?」
ほつれ屋のリィナだった。
背中に大きな行商袋を担ぎ、腰には幾つものポーチをぶら下げ、飾り房のついた帽子を斜めにかぶったその格好は昨日と変わらない。けれど、いつもと違うのはその目だった。軽快な笑みの奥に、緊張の糸が一本、はっきりと張られていた。
「リィナ」と糸子は言った。「また来たの」
「また来たわ。おはようのかわりに、ちょっと厄介な話を持ってきた」
彼女は糸子の隣に腰を下ろすことなく、廃園の中央に向かって歩き始めた。糸子がついていくと、石畳の上に昨夜の花びらがまだ散り残っているのに気づいた。リィナもそれを見た。一瞬、足が止まる。
「……咲かせたの?あなたが」
「うん」
「そう」
それだけ言って、リィナはまた歩き出した。しかしその歩幅が、ほんのわずか、ゆっくりになった気がした。
公爵が気配を察知したのか、いつの間にか回廊の柱にもたれて立っていた。いつ起きたのか、いつそこへ移動したのか、まったく音がなかった。
「ほつれ屋」と彼は言った。「こんな朝早くに来るということは、厄介ごとの規模が大きいな」
「さすが公爵、察しがいい。でも残念ながら察しよりさらに大きい」
リィナは行商袋を下ろして石畳に置くと、中から一枚の薄い布を取り出した。縦横に複雑な縫い目が走り、所々が褪せたり、逆に鮮やかな色彩が滲んでいたりする、奇妙な布だった。広げると両腕を伸ばしてもまだ足りないほどの大きさがある。
「大ほつれが、加速してる」
その言葉が廃園の静けさの中に落ちて、朝露のように広がった。
「大ほつれ」と糸子は繰り返した。
「縫界の各地で記憶布がほつれていく現象よ。小規模のほつれなら縫守たちが対処できる。でも今起きているのはそれとは規模が違う。東のウォルベ市が先月、一夜でほとんど消えた。北の辺境では廃園が連鎖的に崩れて、広さにして布三十反分の地形が失われた。そして昨日、私が通ってきた街道沿いで、道そのものが半分ほつれかけているのを見た」
公爵の眉が静かに寄った。感情をほとんど顔に出さない人だが、その微細な変化を糸子は気づかずにはいられなかった。
「縫守たちは動いていないのか」と公爵が言う。
「動いてる。でも追いつかない。ほつれの速度が縫守の縫合速度を超え始めてる。そしてこれが一番まずいんだけど——ほつれが、中心部に向かって進んでいる」
中心部。縫界の、中心。糸子はその言葉の意味を正確に理解できなかったが、リィナと公爵の間に流れた沈黙の重さで、それがどれだけ致命的なことかを感じ取った。
「なぜ今それを私たちに」と公爵が言った。「縫守オリカに伝えるべきではないか」
「オリカ様を探してる。それはあなたたちと同じよ。でも今私がここに来たのは、それだけじゃない」
リィナは広げた布の上に指を走らせた。縫い目の一本をなぞると、布の表面がかすかに発光し、地形のような輪郭が浮かび上がった。地図だった。縫界の、地図。
「これはここ最近の大ほつれの記録。縫い込んで可視化したの。見て、このほつれの走り方」
糸子は屈み込んで布を覗いた。光る線が網目のように走っているが、その密度の高いところと低いところがある。そして線の流れには、確かに方向があった。まるで布が、どこかへ向けて引っ張られているかのように。
「集まってる」と糸子は言った。
「そう。一点に向かって収束しようとしてる。そこが——」
「原初の縫い台」と公爵が静かに言った。
リィナが顔を上げた。少し驚いたように見えた。
「知ってたの」
「知っていたわけではない。そう呼ぶしかない場所がある、という話を聞いたことがあるだけだ」
「原初の縫い台って」と糸子は二人に聞いた。「なに?」
しばらくの沈黙があった。リィナが先に口を開いた。
「縫界がはじまった場所よ。最初の記憶布が置かれた台。縫界のすべての縫い目は、たった一本の糸から始まったと言われている。その糸の根元が、原初の縫い台にある」
「つまり縫界の、土台みたいなもの?」
「そう。そして伝説では——そこには縫い手がいたという話がある。縫界を最初に縫い合わせた存在。原初の縫い手、と呼ばれている」
糸子の胸の中で、何かが静かに動いた。針を持ったときに感じるあの感触とは違う。もっと深いところの、奥底のほうの何かが、ゆっくりと向きを変えたような感じ。
「その人がいるの?今も」
「いない。少なくとも今は、誰も確認していない。でも——」
リィナが糸子をまっすぐに見た。いつもの飄々とした目ではなかった。何かを計るような、それでいて怖れているような目だった。
「昨日あなたが咲かせた花。あれは普通の縫合じゃない。記憶布に直接命令するような、そんな縫い方だった。原初の縫い手が持っていたと言われる能力に、一番近い」
言葉が終わった後、廃園はしんと静まり返った。
糸子は自分の手を見た。指先に、昨夜の針の感触がまだ残っているような気がした。
「でも私は——名前も、過去も、何も持っていない」
「そういう人間が、持っていることもある」とリィナは言った。声は静かだったが、その奥に刃のような確信があった。「あるいは、失ったからこそ残ったものが、そこにあるのかもしれない」
公爵が石畳を一歩踏んで、地図の前に立った。長い指が布の表面をなぞり、ほつれが収束する一点を押さえる。
「オリカを探し、原初の縫い台を目指す。どちらの道も、同じ方向を指しているということか」
「そう。だから私はここに来た」
リィナは地図の布をたたみ、糸子の前に差し出した。
「持っていきなさい。この地図はあなたたちの方が必要にしているはずだから」
糸子はその布を受け取った。厚みが均一ではなく、縫い目の密度によって微妙に硬さが変わる。誰かの記録が、確かな重さを持ってそこに存在していた。
「リィナ」と糸子は言った。「あなたは来ないの?」
「私は私のルートがある。でもどこかでまた会うでしょう。縫界はそう広くない——今はもう、少し狭くなりすぎているぐらいだから」
最後の言葉だけが、いつもと少し違うトーンで落ちた。笑っていない口元で言われた言葉は、何かを隠しながら何かを伝えようとしているように聞こえた。
リィナが踵を返す。行商袋を肩に担ぎ直し、帽子を直し、鉄門に向かって歩いていく。その背中は軽快なのに、どこか重たかった。
「ねえ」と糸子は呼んだ。
リィナが振り返らずに足を止めた。
「あなた、何か隠してる」
短い沈黙。それから、前を向いたまま小さく笑う気配がした。
「さあ、どうかしら。行商人は秘密が多い商売だから」
そのまま、鉄門を抜けて消えた。
残された廃園に、朝の光がゆっくりと降り積もっていく。昨夜咲いた白い花が、光の中でかすかに輝いていた。
糸子は地図を胸に抱いて、公爵を見た。公爵は何も言わずに空を見ていた。体中の継ぎ接ぎが、光の中で複雑な影を作っている。
大ほつれ。原初の縫い手。そしてリィナの隠している何か。
旅は、始まる前からすでに、思っていたよりずっと深いところへ向かっていた。