リィナが去ってから、廃園はずっと静かだった。

 風は止み、木々の影だけが地面をゆるやかに這う。糸子は渡された地図を何度も広げては折り畳み、折り畳んでは広げた。紙ではなく布でできたその地図は、触れるたびにほのかに温かく、誰かの記憶がまだ宿っているようだった。原初の縫い台へ向かう道筋は、何本もの縫い目で示されていた。赤、青、黄、色褪せた金——それぞれが違う手によって縫われたらしく、針目の大きさも間隔もばらばらで、まるで長い時間をかけて何人もが書き足した航海図のようだった。

 糸子は地図から目を上げ、少し離れたところに腰を下ろしている公爵を見た。

 彼は廃園の縁、蔦に覆われた石壁にもたれ、膝を立てて腕を組んでいた。その体には今日も無数の布切れが縫いつけられている。深緑の麻布、白茶けた絹の端切れ、粗い綿の一片——それらが継ぎ接ぎに重なり合い、彼という人間の輪郭を構成している。風が吹けばその一部がはためき、まるで彼が常に半分だけ空気に溶けかけているようにも見えた。

 リィナの言葉がまだ耳に残っていた。

 ——あの人は、自分の記憶をひとつも持っていない。

 正確にはそういう言い方ではなかった。けれど糸子には、そう聞こえた。

 「……ねえ」

 声に出してから、続く言葉を探した。何を訊けばいいのか、あるいは訊いていいのかも、分からなかった。名前を売り払って自分が誰かも分からない自分が、他人の記憶のなさについて何を言えるというのだろう。

 だが公爵は組んでいた腕をわずかに解き、視線だけをこちらへ向けた。返事はなかったが、聞いている、という空気だった。

 「リィナが言ってたこと、本当なの」

 今度は続けた。声が思ったより平らになった。責めているわけではない、ただ知りたいのだという気持ちが、うまく乗ったかどうか自信はなかった。

 公爵はしばらく黙っていた。石壁の上で何かの虫が鳴き、遠くで布のはためく音がした。廃園のどこかで記憶布がほつれているのかもしれなかった。

 「……どこまでを本当と呼ぶかによる」

 低い声だった。いつもの皮肉の形をしていたが、棘がなかった。

 糸子は黙って待った。

 公爵はゆっくりと膝から腕を外し、自分の右手を見下ろした。その甲には特に多くの布が縫いつけられていて、糸目が幾層にも重なっている。

 「俺には、俺自身の記憶がない」

 言ってから、少し間を置いた。まるで言葉の重さを確かめるように。

 「どこで生まれたか、何を食べて育ったか、誰かを好きだったかどうか——そういうものが、全部ない。あるのはこいつらだけだ」

 右手で自分の胸元を軽く叩いた。布が鈍い音を立てた。

 「他の誰かが生きた記憶。それを縫いつけることで、俺はかろうじて形を保っている。借り物の輪郭で立っているようなものだ」

 糸子は息を吸った。吐くのを少し待った。

 「じゃあ、公爵が感じてることとか、考えてることは」

 「それは俺のものだろうと思っている」

 即答だった。今度は迷いがなかった。

 「縫いつけた記憶は俺を形にするが、俺の中で起きることは別だ。少なくとも、そう信じている。そう信じなければ、立っていられない」

 その言葉の裏側に、長い年月が詰まっているように聞こえた。糸子はそれ以上掘り下げなかった。

 「何かを失う前の自分のことは」

 「覚えていない。失う前のことを覚えていたら、記憶を失ったとは言わない」

 「……そうだね」

 「ただ」

 公爵が続けたので、糸子は顔を上げた。彼はまだ自分の手を見ていた。

 「何かがあった、という感触だけはある。大切な何か。形も名前も分からない。ただ、失ったという感覚だけが、俺の中に縫いつけられていない部分として残っている」

 風がまた吹いた。公爵の体の布がいっせいにはためいた。糸子の針差しも揺れて、中の針が小さく鳴った。

 失ったという感覚だけが、残っている。

 糸子は自分のことを思った。名前を売り払った朝のことを——いや、それも正確には覚えていない。覚えていないのに、何かが欠けているという感触だけがある。きっとそれは公爵が言ったものと、形は違えど、同じ種類のものなのかもしれなかった。

 「私も似たようなものかもしれない」

 気づいたら声に出していた。「名前がないっていうのは、自分がどこから来たか分からないってことで。失くした感触はあるのに、何を失くしたか分からないの。変な話だよね」

 「変ではない」

 公爵は短く言った。

 「それが縫界の病だ。人は記憶を売り、記憶を縫いつけ、やがて自分が何者か分からなくなる。縫界そのものが、そういうふうにできている」

 「……ガルデが、それを利用してる」

 「利用しているのか、加速させているのか、あるいは最初からそういう仕組みを作ったのか——それはまだ分からない」

 公爵は石壁から背中を離し、立ち上がった。夕暮れが近いのか、廃園の空が橙と紫の境界を滲ませていた。その色が彼の継ぎ接ぎの布に落ちて、一瞬だけ彼を美しいものに見せた。

 糸子はそれを見て、胸の針がちくりと疼くのを感じた。意味は分からなかった。ただ疼いた。

 「一つだけ、訊いていいか」

 公爵が珍しく先に言った。糸子は少し驚いてから、うなずいた。

 「お前は、記憶を取り戻したいと思っているか」

 問いは静かで、責めるでも試すでもなかった。ただ純粋に、知りたがっていた。

 糸子はすぐに答えなかった。地図を膝の上に置き、自分の指先を見た。指には細かい傷跡が多い。縫い物をするたびにつく、針の跡だ。それだけが今の自分について、確かに知っていることだった。

 「取り戻したい、と思う気持ちはある」

 ゆっくり言った。「でも、それより先に、今の自分がちゃんと在りたいって気持ちの方が強い。名前がなくても、記憶がなくても、今ここで感じてることは本物でしょ。そっちを全部終わらせてまで取り戻すのは、なんか違う気がしてる」

 公爵は何も言わなかった。

 だが糸子は、彼がわずかに表情を動かしたのを見た。皮肉でも無関心でもない、何か別のもの。それが何なのかを言葉にする前に、彼は踵を返した。

 「行くぞ。夜になると廃園の布がほつれる。巻き込まれたくなければ、早めに野営の場所を決めた方がいい」

 「あ、待って——」

 「地図は持ったか」

 「持った」

 「針は」

 「当然」

 「ならいい」

 それだけだった。いつもの調子に戻った言葉は素っ気なく、背中は既に廃園の奥へ向いていた。

 糸子は立ち上がりながら、地図を懐にしまった。針差しを確かめた。そうしながら、さっきの公爵の横顔を思い返した。

 何かがあった、という感触だけはある——。

 その言葉が、布に縫い込まれた糸のように、胸の中に残った。

 彼がかつて持っていた大切な何かが何なのか、糸子にはまだ分からない。だが、そこへ続く糸口が、確かに今夜ここで一本だけ、ほどけかけた気がした。

 廃園の空に星が出始めた。記憶の古い場所ほど、星が多いと誰かに聞いたことがある——誰に聞いたのかは、もう覚えていないけれど。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

12

公爵、重い口を少しだけ開く

緒方 縹

2026-05-25

前の話
第12話 公爵、重い口を少しだけ開く - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版