夜の縫界は、昼とはまるで別の顔を持っていた。
ドームの外縁を抜けた瞬間、糸子は思わず足を止めた。息が白く染まるほどの冷気ではない。むしろ空気は生温かく、どこか湿り気を帯びていた。問題は空だった。頭上に広がるのは、星ではなかった。無数の布片が宙に浮いている。掌ほどの大きさのものから、家一軒を覆えるほどの大判まで、色も厚みも模様も違う無数の切れ端が、風もないのにゆっくりと回転しながら漂っていた。
「記憶布の堆積層だ」
公爵が静かに言った。コートの右胸には、糸子が縫い付けた仮縫いの花が揺れている。街灯も月もない暗がりの中で、その白い花だけが奇妙な存在感を放っていた。
「辺境に近づくほど古い記憶が浮き上がる。土の中に埋まりきれなくなった布が、こうして夜に滲み出してくる」
「気色悪いとは思わないの?」
リィナが肩をすくめて言った。三人の中でただ一人、彼女だけは慣れた顔をしている。行商人として縫界各地を渡り歩いてきた彼女にとって、この光景は見慣れた辺境の常識なのだろう。
「思わない」と公爵は答えた。「誰かが確かに生きた証だ」
糸子は黙って空を見上げた。浮かぶ布片のひとつが、ゆっくりと真上を流れていった。薄い縹色の布で、端がほつれている。なぜかその布が視界に入った瞬間、鼻の奥がつんとした。知らない記憶のはずなのに、懐かしいような感覚だった。
道は、なかった。
ドームの輪郭が遠ざかるにつれて、地面そのものが変容しはじめた。平らだった土がうねり、ところどころ布の層が地表に露出している。まるで古い本の背表紙が土からはみ出しているように、記憶布の断面が折り重なっている。踏み出そうとして糸子は気づいた。一歩先に足を置けば、どの層を踏むことになるのか分からない。誤った記憶の上に乗れば、それがほつれて足首まで沈み込む危険がある。
「どう進む?」
糸子が問うと、公爵はわずかに眉を寄せた。
「普通は記憶布の固い部分を選んで渡る。鑑定士か、土地勘のある者でないと難しい」
「私は鑑定士じゃないし、土地勘もない」
「分かってる」
「じゃあ」
糸子は針を抜いた。いつからそこにあるのかも分からない、指の第一関節ほどの小さな針。糸子が感情を高ぶらせると、針は自然と指の間に収まる。今夜も、廃園から逃げ出す頃からずっと、針は糸子の手の中に納まっていた。
一歩踏み出した。地面の布がたわむ。糸子は膝を落として地に触れ、指先で層の端を持ち上げた。ほつれかけた縫い目が感触として伝わってくる。どこかで切れかけている。糸子はそこに針を刺した。感覚よりも先に手が動いていた。
糸が出た。
針の尾から伸びる糸は、糸子自身が持ってきたものではない。浮遊する記憶布の端から、細い繊維が引き寄せられてきた。まるで磁石が砂鉄を集めるように。糸子の針が縫い進むにつれて、地面のほつれが閉じていく。切れかけていた層が結びつき、踏み固めた道のように安定する。
「……動いた」
リィナが小さく声を上げた。驚きの中に、何かを確認するような響きがあった。
糸子は顔を上げなかった。夢中だった。針が次の縫い目を見つける。また一か所、ほつれが閉じる。足一つ分だった道が、二足分になる。三足分になる。無意識に体が前へ進んでいた。縫いながら歩く、というよりも、縫うことで道が生まれ、道が生まれるから歩ける、という順序だった。
しばらくして顔を上げると、背後には細い一本の縫い線が地面を走っていた。
「道になってる」
糸子は自分でも驚いて言った。声が少し震えた。
「ああ」と公爵が言った。「なっている」
その声は、いつもより低く、静かだった。皮肉も含まれていない。ただそこに在る、という声だった。糸子は振り返って公爵を見た。公爵は縫い線を見つめていた。その表情を夜の暗がりの中で正確に読み取ることはできなかったが、眼差しが柔らかいことだけは分かった。
三人は進んだ。
辺境の地形は進むごとに奇異の度を増した。地面から半身を出した人型の布塊があった。顔の輪郭は崩れているが、衣服の形状がかろうじて残っている。糸子が横を通り過ぎた瞬間、その布塊の「手」の部分がゆっくりと持ち上がった。誰かに向けて差し出されたような形に。
「触るな」
公爵が静かに言った。糸子の手首に触れた指が、布塊から遠ざける。
「記憶の残滓だ。強い感情が染み込んだ布は、近くに人が来ると動く。縫い合わせると取り込まれる」
「取り込まれる?」
「その記憶があなたの一部になる。今のあなたには荷が重い」
今のあなたには、という言い方が少し気になった。糸子は何も言わずに前を向いた。
行く手に、丘があった。いや、丘というより積み山だった。古い記憶布が幾重にも重なり、小山を形成している。頂上からはほつれた端が垂れ下がり、風が吹けば旗のようにたなびくだろうが、今夜は静かに垂れている。その山の向こうに、原初の縫い台への道が続いているとリィナは言った。
「山を越えるしかないか」とリィナが地図を広げながら言った。蛍光する糸で描かれた地図は、縫界特有の素材でできている。「巻いたら三時間は余分にかかる。ガルデの手下が追ってくるなら、それだけの猶予はない」
「越える」と糸子は即断した。
公爵は何も言わなかった。それが肯定だと糸子は読んだ。
山の麓に着くと、問題が明らかになった。布の積み山は、踏み込んだ者の重みで層ごと崩れる構造になっていた。固く締まった地面と違い、記憶布の積層は不安定で、一歩ごとに膝まで沈み込む。
糸子はまた膝を折った。地面に触れ、層の走り方を指で確かめる。縫い目がある。ほつれがある。固く縫われた箇所がある。糸子の指が縫い目をなぞると、布の固有の「温度」が伝わってくる気がした。固い縫い目は冷たく、ほつれた箇所は微かに温かい。
「縫い直せば固まる?」
「理論上は」と公爵が言った。「だが規模が違う。ここまでの道と比べれば、山全体を縫い直すことになる」
「やってみる」
「無謀だ」
「でも道はここしかない」
公爵はしばらく糸子を見ていた。糸子は見返した。先に目を逸らしたのは公爵だった。
糸子は山に手を置いた。両手のひらを布の積層に押し当て、目を閉じる。針は指の間にある。意識を集中させると、山全体の縫い目の地図が、感触として流れ込んでくる気がした。ほつれの場所が分かる。固い縫い目の走り方が分かる。どこからどこへ糸を渡せば、足場が生まれるか。
糸子は縫いはじめた。
今度は道を作るだけではなかった。山を横断できる足場を、一段一段作っていく。右足置き場を縫い固め、左足置き場を縫い固め、次の段へ。針が動くたびに布の積層が締まり、踏んでも沈まない確かな段が生まれていく。時間がかかった。指が熱を持ちはじめた。それでも針を止めなかった。
山の中ほどまで来たとき、古い記憶布の一枚がほどけた。ほどけた布が宙に展開し、糸子の目の前に像を結んだ。誰かの食卓だった。丸いテーブルに三人分の椀が並んでいる。子供の笑い声のような、音ではなく気配だけがある。それは三秒ほどで霧散した。
糸子は息を吐いた。胸が締まった。
自分の食卓が、かつてどんな形だったか。もう分からない。名前を売ったとき、それも一緒に行ってしまったのかもしれない。
山を越えた。三人が頂上を踏み、反対側の斜面を降りるころには、夜がほんの少し薄くなりはじめていた。
東の稜線の向こうに、原初の縫い台があると言われる方角が広がっていた。まだ遠い。しかし確かに、道がある。糸子自身が縫い固めた、細く真っすぐな道が、辺境の地形の上を続いている。
「初めて、自分の力で道を作った」
糸子は呟くように言った。誰かに聞かせるつもりもなかった。
「ああ」と公爵が言った。「あなたが縫った道だ」
風が来た。頭上の記憶布がざわめいた。その中に一枚、縹色の布がある。さっき空で見たものと同じか、別のものか。その布の端が、糸子の指先をかすめて流れていった。
その刹那、何かが糸子の胸をかすめた。名前を失う前の、遠い遠い何かの欠片が。しかし形になる前に消えた。
糸子は前を向いた。夜明けの縫界は、まだ遠く、まだ続いていた。