夜が落ちるのは、いつだって唐突だった。
廃園の空は昼のあいだ、灰色と薄青のあいだで曖昧に揺れていたが、日が沈むとたちまち深い紺に変わり、記憶布の繊維がほんのりと燐光を帯びて浮かび上がる。花壇の枠を成す古い布地が、内側から滲むように光る。それはかつて誰かが抱いた「美しかった庭の記憶」が、まだそこに残っているからだ、と糸子は思った。記憶はいつまでも光ろうとする。誰に見せることもなく、ただそうしたくて。
糸子は東側の崩れた石壁に背を預けながら、膝の上の針を持て余していた。
指先に挟んだままの針は、さっきから微かに震えている。感情が乗り移っているのだ。不安なのか、それとも別の何かなのか、糸子自身にはうまく区別がつかなかった。ただ、針が震えているということは、自分の心が今静かではないということだけは分かった。
「東の森の縁に、三人いる」
公爵が低い声で言った。壁の上に腰かけ、夜目の利く瞳で闇を眺めている。夜風に黒いコートの端がひらめき、体中に縫い付けられた記憶布の断片がざわりと揺れた。
「ガルデの手下か」
「おそらく。動きが揃っている。商人の護衛に使うような動き方じゃない。廃園を囲むつもりだ」
糸子は静かに息を吸った。来るとは思っていた。ガルデが廃園を「不良在庫」と呼んで消去しようとしているという話は、リィナからすでに聞いていた。だが、こんなに早いとは。
「リィナは」
「南の抜け道を確認しに行った。三十分で戻ると言っていた」
「もう四十分経ってる」
「そうだな」
公爵は短く答えた。その声に、いつもの皮肉がなかった。糸子はそれが少し怖かった。皮肉がないということは、彼が今真剣に場を読んでいるということで、真剣に場を読んでいるということは、それだけ状況が悪いということだった。
糸子は立ち上がり、仮縫いの花に向かって歩いた。
廃園の中央、崩れた噴水の台座に、糸子が縫い付けた花がある。先日、衝動で針を走らせたものだ。正確には「花に似た形に縫い上げた記憶布の切れ端」で、本物の花でもなければ、誰かの精緻な記憶でもない。糸子が拾い集めた端切れを、ただ花の形に縫い合わせただけの、粗末な仮縫いだ。
それでも、夜の燐光の中でそれは光っていた。
五枚の花びら。縫い目は荒く、形は歪んでいる。けれど糸の色は七色が混じり合っていて、暗がりの中ではむしろ鮮やかに見えた。誰かの悲しみの青。誰かの歓びの赤。誰かの懐かしさの黄色。糸子はそれらが何の記憶から来ているのかを知らないが、縫い合わせたとき、指先に確かに何かの温度があった。
置いていくのか、と糸子は思った。
答えはもちろん、そうだった。持ち運べるようなものではないし、そもそも廃園ごとガルデに消されてしまうなら、持ち出しても意味がない。それでも、しゃがんで顔を近づけると、仮縫いの花はじっとそこにあって、糸子を見返すような気がした。
見返さない。布だ。記憶の断片だ。
「お前が縫ったのか」
いつの間にか、公爵が背後に立っていた。
「そう」糸子は立ち上がらずに答えた。「衝動で。深い意味はない」
「深い意味がなくても、縫えるのか」
「縫えるよ。あたしの縫い物に、意味はあとからついてくる。たいていは」
公爵はしばらく黙っていた。糸子は彼が何を考えているのかを読もうとしたが、夜の中の彼の顔はいつにも増して読めなかった。ただ、彼の体に縫い付けられた無数の記憶布が、仮縫いの花に向かってわずかに靡いているように見えた。まるで引き寄せられるように。
「持っていく」
公爵が言った。
「え」
「その花。持っていく」
糸子が驚いて振り向くと、公爵はすでに膝をついて、仮縫いの花に手を伸ばしていた。ためらいなく台座から剥がし、胸元のコートを開く。内側の裏地に、細い針を差し込み、慣れた手つきで縫い付け始めた。
「縫い付けてどうするの」
「身に帯びる」
「あたしの縫い物だよ。そんな価値のある記憶布じゃない」
「知っている」
それだけ言って、公爵は縫い付けを終えた。コートを閉じると、花の輪郭がわずかに裏地から浮き上がり、生地越しに七色の光が滲んだ。彼は立ち上がり、糸子と目が合った。
糸子は何か言おうとして、やめた。何を言えばいいのか分からなかった。ありがとう、と言うのはどこか違う気がした。これはあたしが捨てていくものを、彼が拾うという話だ。感謝する筋合いのものではない。でも、それでも、喉の奥に何かが詰まった。
「南から光が出た」
公爵が視線を転じた。遠く、南の木立の合間から、小さな緑の灯りが三回点滅する。リィナの合図だ。
「抜け道、あったんだ」糸子は呟いた。
「行くぞ」
公爵はすでに歩き出していた。糸子は一度だけ、花のあった台座を振り返った。そこにはもう何もない。ただ、かすかに糸の温度が残っているような気がした。気のせいかもしれない。記憶布に温度はないから。
でも、と糸子は思った。気のせいでもいい。
駆け足で公爵の後を追った。
リィナが待っていたのは、南壁の蔦に隠れた小さな切れ目だった。廃園を囲む布張りの壁が、経年でほつれた箇所を、リィナが器用に広げて通路を作っていた。
「遅い遅い、もう完全に包囲される前に行くよ」リィナは囁き声で言って、二人を手招きした。「東に七人、北に四人、確認した。南だけまだ薄い。今のうちに抜ける」
「何があった。三十分と言っていたのに」
「蔦に指噛まれた。縫界の植物、たまに噛むから」
リィナは右手の人差し指を見せた。布の繊維が巻き付いた傷跡があった。糸子は小さく笑ってしまった。それがリィナの功績なのか失態なのか判断できなかったが、笑ってしまったのは事実だ。
「笑うことないじゃないの」
「ごめん」
「謝罪は受け取った。行くよ」
三人は切れ目をくぐった。リィナが先に出て、公爵が糸子の手を一瞬だけ引いた。壁の内と外、その境目を越えた瞬間、空気の質が変わった。廃園の内側は濃密な記憶の気配に満ちていたが、外に出ると風が違う。乾いていて、遠くを向いている風。
糸子は立ち止まって、もう一度だけ壁を見た。
切れ目はリィナがすでに縫い閉じていた。まるで誰も通らなかったかのように。廃園は夜の中に黙って立ち、内側から燐光を零し続けている。誰かの庭の記憶が、今夜もそこで光っている。
置いてきた花はない。でも、公爵の胸の内側に縫い付けられて、旅に出た。
それでいい、と糸子は思った。記憶は誰かが運んでいれば、消えない。形が変わっても、場所が変わっても、誰かの体の中で続いていれば、それはまだある。
「糸子」
公爵が低い声で呼んだ。名前を持たない自分が、それでも彼の口から「糸子」と呼ばれると、足の裏に地面を感じる気がした。不思議だと思う。名前を売り払ったはずなのに。
「行く」
糸子は前を向いた。リィナが闇の中で手を振っている。公爵が隣に並ぶ。三人の足音が夜の草を踏み、廃園はどんどん遠ざかる。
背後でかすかな音がした。
振り返ることはしなかった。でも糸子には分かった。廃園の花壇のどこかで、古い記憶布がひとつ、ほどけて消えた音だった。縫界はまた、少しだけ失った。
だから前へ行かなければならない。
原初の縫い台がどこにあるのか、まだ誰も知らない。ガルデが追ってくる。縫守のオリカが何かを知っている。公爵の本当の名前も、糸子が売り払った名前も、まだどこかに在る。
糸子の針が、また震えた。
今度は不安ではなかった。これは、と糸子は思った。これは、たぶん。
前へ向かうときの、震えだ。