糸縒り市場の朝は、音から始まる。
布を打つ乾いた音。値を呼ぶ売り子の声。記憶布が擦れ合うとき独特に立つ甘い焦げ臭さ。そのすべてが黄金のドームの内側で反響し、市場全体がひとつの巨大な楽器のように鳴り続けていた。
糸子は路地の入り口に立ったまま、しばらく動けなかった。
通路の両脇には色とりどりの布が吊り下げられ、光を受けてゆらゆらと揺れていた。深い藍色のものは海の記憶を含んでいると言われ、触れると潮の香りがするらしい。薄桃色のものは子どもの頃の昼寝の夢だという。白に金糸が走る反物は、老いた職人が五十年かけて覚えた技術の全部をほぐして売りに出したものだと、隣の屋台の主人が自慢気に語っていた。
「すごい……」
思わず声が漏れた。市場の喧騒は耳をふさぎたくなるほどなのに、不思議と心地よかった。針箱の中で針がかすかに揺れるのを感じた。糸子の感情が針に乗り移っているのだろう。今この瞬間の興奮が、細い鋼の中に宿っていく。
少し後ろを歩く公爵は何も言わなかった。ただ糸子の少し斜め後ろに立ち、市場全体を静かに見渡している。その目は相変わらず読めなかった。体中に縫い付けられた無数の記憶布の切れ端が、人混みの風に揺れている。ここでは彼のような姿の者も珍しくないらしく、誰も二度見しなかった。
リィナはとっくに姿を消していた。「下準備がある」と言い残して路地の奥へ消えていったきり、もう一時間は経つ。
「勝手に動くなよ、とは言ったが」
公爵が低く言った。
「言ってない」
「言った」
「絶対言ってない」
糸子は振り返って言い切った。公爵はわずかに目を細め、それ以上何も言わなかった。黙認と受け取った糸子は足を踏み出した。
市場の表通りは華やかだった。しかし糸子の足は自然と、その賑わいの縁へ縁へと向かっていった。感情の赴くまま動く体質は、いつも彼女を人の流れの逆側へ連れて行く。
裏通りに入った途端、空気が変わった。
ドームの光が届きにくい路地の奥に、小さな屋台がひっそりと並んでいた。表の市場と違い、ここに吊るされた布はどれも短く、色あせている。端がほつれ、繊維がほどけかけているものも多い。売り手たちは若者か、あるいは老人だった。中年と思われる者の姿がほとんどなかった。
糸子は立ち止まった。
一つの屋台の前で、女がうなだれるように座っていた。膝の上に載せた布は、手のひらほどの大きさしかなかった。それでも女は両手で丁寧に折り畳み、値札を付けようとして、何度も手が止まっていた。
「あの布、何の記憶ですか」
思わず声をかけた。女はゆっくり顔を上げ、糸子を見た。目が虚ろだった。
「子どもの顔、です。うちの子の、小さい頃の」
糸子は返す言葉を見失った。
「今年で三回目になります。毎年少しずつ売って、食べています」
女は静かに言った。自嘲でも嘆きでもない、ただ事実を述べる声だった。それがかえって糸子の胸を締め付けた。針箱の中でかすかな音がした。針が揺れている。
公爵が後ろに立っているのを感じた。彼が何を考えているかは分からなかった。ただその気配は、糸子を急かさなかった。
裏通りの奥に進むにつれ、屋台はさらに小さくなった。路地の突き当たり、ドームの壁際に近い場所で、糸子は足を止めた。
子どもがいた。
十歳にもならないだろう小さな子どもが、地べたに座って布の切れ端を並べていた。売り物にするには小さすぎる。縦横それぞれ指二本分ほどの、ほとんど意味をなさない断片たちだ。それでも子どもは一枚ずつ、ひびが入った煉瓦の上に丁寧に並べていた。
糸子はゆっくりしゃがんで、目線を合わせた。
「ねえ、何を売ってるの」
子どもはびくりと肩をすくめ、布の切れ端を両手で覆い隠した。しかしすぐに、諦めたように手をどけた。
「……なまえ、です」
その一言が、胃の奥に落ちた。
「名前?」
「売ったので。なんていう名前だったか、かけらがここにあります。ぜんぶは、もう、ないですけど」
子どもは手の甲で鼻のあたりを拭った。泣いているわけではなかった。ただそれが習慣のような仕草だった。
糸子はしばらく何も言えなかった。
自分も同じだった。どこかで、どんな理由で、糸子は自分の名前を売った。理由も状況も覚えていない。ただ今の自分に名前がないことだけが分かっている。糸子という呼び名は、公爵が暫定的につけた仮称だ。本当の自分が何という名前で呼ばれていたか、もはや知る術がない。
目の前の子どもは、まだ欠片を持っている。
糸子はそれが羨ましいとも、哀れとも、上手く整理できなかった。
「いくらで売ったの」
「ごはん、ひと月分」
子どもは淡々と答えた。
「なんで売ったの」
「お母さんが病気だったから」
糸子は唇を結んだ。
何か言おうとした。励ます言葉か、あるいは何か別の何かを。しかし言葉はどこかで詰まって出てこなかった。代わりに針箱の中で針が激しく揺れ、糸子の指先に熱が集まった。
「糸子」
背後から声がした。公爵だった。
糸子は振り返らなかった。声はいつも通り低く、感情の色を持たない。それでも今だけは、その声がやけに胸に響いた。
「行くぞ」
「……うん」
立ち上がりながら、糸子はもう一度子どもを見た。子どもは再び布の欠片を並べ始めていた。売るでも捨てるでもなく、ただ並べている。並べることで、失った何かの輪郭を確かめているように見えた。
裏通りを抜けて表通りに戻ると、市場の賑わいが再び四方から押し寄せてきた。しかし今はさっきとは違う音に聞こえた。華やかな色も、呼び込みの声も、同じなのに違う。裏で見たものが、表の見え方を変えてしまっていた。
「ここの市場は、何で成り立ってるんだろう」
糸子は歩きながら言った。独り言のようにも、問いかけのようにも聞こえる言い方だった。
「記憶だ」
公爵が答えた。
「表で買われる上等な記憶は、裏で切り売りされた者たちの積み重なりの上にある」
糸子は黙って聞いた。
「市場の均衡とは、そういうものだ。この縫界に限った話ではない」
「公爵は」糸子は言った。「それでいいと思ってるの」
しばらく間があった。
「いいとも悪いとも思わない」
「嘘だ」
糸子は振り返った。公爵は足を止め、糸子を見ていた。体中の記憶布がかすかに揺れている。その奥にある彼の顔は、いつも通り無表情だった。しかし瞳の色が、普段より深いように見えた。
「嘘だと思うなら、そう思えばいい」
それだけ言って、公爵はまた歩き始めた。
糸子は少しの間その背中を見てから、小走りで追いついた。針箱の中はまだ揺れていた。熱は指先から離れなかった。
市場の喧騒の向こう、ドームの壁際にリィナが待っていた。いつものにやけ顔ではなく、今日は珍しく表情を引き締めていた。
「二人とも、裏通り行ってきた顔してる」
糸子は何も言わなかった。リィナは一瞬糸子の針箱に目を落とし、それから小さく息をついた。
「見た上で行ってもらうつもりだった。沈み布に向かう前に、何のために行くのか、体で分かっておいた方がいいから」
「どういう意味」
「ガルデが廃棄しようとしてる記憶布の中に」リィナは声を低くした。「あの子たちが売った名前の記憶も、入ってる」
糸子は息を止めた。
「全部まとめて、不良在庫として処分するつもりだよ。オリカを見つけなきゃ、止める方法もない」
リィナの言葉が、市場の音の中に沈んでいった。
糸子の指先でまた、針が熱を持った。