夜が布のようにほどけていく。

 糸縒り市場の喧騒が遠ざかり、三人が身を寄せた廃屋の隙間に、縫界の夜気がじわりと染み込んできた。星ではなく、薄く発光する記憶布の切れ端がドームの天井を漂い、青白い光を降らせている。その光の中で、糸子はふと気づいた。

 公爵の輪郭が、にじんでいる。

「……公爵」

 呼びかけても、彼はすぐに返事をしなかった。廃屋の壁にもたれ、腕を組み、目を閉じている。眠っているのかと思ったが、その胸元がわずかに揺れている。正確には、胸元に縫い付けられた布の一枚が、揺れているのだ。ぱらぱらと、まるで古い本のページが風に煽られるように。

「公爵。ねえ」

 糸子が肩に触れると、彼はゆっくりと目を開けた。その目の色が、いつもより薄い気がした。曇りガラス越しに見るような、焦点の定まらない色。

「……なんだ」

「体、おかしくない?」

 一拍の間があった。

「おかしくない」

「嘘をついている」

 今度は間がなかった。公爵は小さく息をついて、組んでいた腕を解いた。その動作に合わせて、胸元の布がまたぱらりと動く。近くで見れば、糸子にも分かった。縫い目が、ほつれている。一本、また一本と、糸が解けて端から丸まっていく。布の色が、じわりと淡くなっていく。

「三日ほど前から気づいていた」と公爵は言った。「市場の混雑で、誰かにぶつかった拍子にほつれが入ったんだろう」

「どうして言わなかったの」

「言ったところで何も変わらん」

「変わる」糸子は即座に言い返した。「少なくとも私が知れる。知っていれば、考えられる」

 公爵は糸子を見た。その目の薄さが、少しだけ戻ったように見えた。

「……リィナは」

「外で見張りをしてもらってる。二人で話す機会なんて、なかなかないし」

 それが意図的な選択だったかどうか、糸子自身も分からなかった。ただ、リィナがいると公爵は何かを閉じてしまう。それだけは分かっていた。

 公爵が自分の胸元を見下ろした。布の端をつまんで、静かに引き出す。赤みがかった橙色の布だった。誰かの記憶の色だろう。それがほどけ始め、糸の先が空中に漂っている。

「縫い直せば、存在は保てる。だが」

「だが?」

「縫い直しには、縫い手がいる。自分では届かない場所がある」

 糸子は公爵の言葉の意味をゆっくりと飲み込んだ。彼は一人で旅をしていた時期が長い。縫い手もなく、ほつれが起きるたびにどうしていたのか、想像するだけで胸がつかえた。

「私が縫う」と糸子は言った。

「できるのか」

「分からない。でもやってみる」

 公爵は少し黙っていた。それから、諦めたような、あるいは何かを決意したような顔で、上着の前を開いた。

 糸子は息をのんだ。

 公爵の体は、文字通り継ぎ接ぎだった。知ってはいた。けれど実際に目の前にすると、全く違う重さがある。肩から腹にかけて、何十枚もの記憶布が隙間なく縫い付けられていた。色も質感もばらばらで、一枚ずつが誰かの人生の断片だろうと思うと、糸子の視界がわずかにゆがんだ。

 そして、一番外側にある橙色の布が、今もほつれ続けていた。

「糸を持っているか」

「持ってる」

 糸子はポケットから針と糸を出した。感情が乗り移るという、あの体質の針と糸。今夜はどんな感情が乗るだろうと、少し怖かった。

「ほつれた糸の端を揃えて、元の縫い目に沿って刺していけ。難しいことはない。ただ、力加減には気をつけろ。強く引くと布が傷む」

「公爵の記憶が?」

「布が」と公爵はやや早口で言った。「布の話だ」

 糸子は少し笑った。公爵は視線をそらした。

 作業が始まった。

 糸子は公爵のすぐそばに膝をつき、橙色の布のほつれた縫い目に針を通した。最初の一刺しは緊張で手が震えた。公爵が小さく息を吸ったのが分かった。

「痛い?」

「痛みはない。ただ……布が揺れる」

「揺れる?」

「記憶が、動く」

 糸子は手を止めようとした。しかし公爵は、「続けろ」とだけ言った。低い声だったが、柔らかさがあった。

 針を進めながら、糸子は何かを感じた。針から伝わってくるものがある。感情ではなく、もっと形のないもの。温度でもなく、重さでもなく、強いて言えば——気配だった。

 橙色の布の向こうに、誰かがいる気配。

 それは幼い子どもの気配で、笑っている。夕焼けの中で、誰かと手をつないでいる。ほんの一瞬の断片が、針を通じて糸子の指先をかすめて消えた。

「これ、誰の記憶?」

 聞いてから、聞くべきでなかったかと思った。しかし公爵は黙らなかった。

「わからない」と彼は言った。「拾ったものだ。廃園に落ちていた。持ち主はとっくにいないだろう」

「……拾うの? 買うんじゃなくて」

「廃園に落ちているものは、もう誰のものでもない。だから拾う」

 糸子は縫いながら、その言葉を心の中で繰り返した。捨てられた記憶を、拾って体に縫い付けて、自分の存在にする。それが公爵という人間の、輪郭の作り方だった。

 胸が痛かった。

 しかし公爵は今、ここにいる。こんなにも確かな温度でそこにいる。

 縫い目が整っていくにつれて、布の色が少しずつ戻ってきた。淡くなっていた橙色が、深みを取り戻す。公爵の輪郭も、にじみが引いていった。

「糸子」

 公爵が名前を呼んだ。名前を呼ばれることに、糸子はいまだに慣れない。彼は知っている、糸子という名前が本名でないことを。それでも呼ぶ。

「なに」

「……縫い方が、やわらかい」

「そう?」

「俺が自分で縫う時より、布が落ち着いている」

 糸子は手を動かしながら、視線だけを上げた。公爵はどこか遠くを見ていた。恥ずかしさとも、困惑とも違う、名前のつけにくい顔をしていた。

「それは」と糸子は言った。「多分、あなたが自分で縫う時は、どこか怖いからじゃないかな」

「怖い?」

「ほつれるのが怖くて、強く引きすぎてるんだと思う。私は怖くないから」

「怖くないのか」

「うん。あなたのことが怖くないし、あなたの記憶が怖くない。だから」

 公爵はしばらく何も言わなかった。糸子も沈黙の中で針を動かし続けた。

 最後の一針を引いて、糸子は玉止めをした。橙色の布は完全に縫い直されて、公爵の体にしっかりと収まっていた。ほつれが、消えている。

 糸子は針を持ったまま、少し後ろに下がった。公爵が自分の胸元を見下ろして、ゆっくりと手のひらで布を押さえた。確かめるように、何度も。

「……ありがとう」

 その声は、いつもの皮肉がなかった。ただの声だった。かすかに、震えていた。

「どういたしまして」と糸子は言った。「でも次は早めに言って。ほつれが大きくなってからじゃ、縫い直しが難しくなる」

「分かった」

「約束して」

「……約束する」

 外でリィナが口笛を吹いた。見張りを続けながらも、退屈しているらしい。その音が遠くて愛しくて、糸子は少し笑った。

 笑いながら、ふと思った。

 針に乗り移った感情は今夜、なんだったのだろう。縫っている間、ずっと温かかった。それがどんな感情の名前なのか、まだ糸子には分からなかった。

 公爵が静かに上着を閉じた。その横顔が、廃屋に差し込む青白い光の中で、今夜は少し柔らかく見えた。

 そして翌朝、リィナが戻ってきた時、その顔には昨夜とは違う色があった。飄々とした笑みの奥に、隠しきれない何かが滲んでいた。

「オリカの居場所、分かったかもしれない」

 言葉は軽かった。しかし糸子には、その軽さが意図的なものだと分かった。リィナが何かを怖れている時の、笑い方をしていた。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

17

公爵の縫い目がほつれる夜

緒方 縹

2026-05-30

前の話
第17話 公爵の縫い目がほつれる夜 - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版