草縫いの谷の入り口は、思っていたよりずっと狭かった。
岩壁に沿って垂れ下がった古い布の束が、暖簾のようにいくつも重なり合って奥を隠している。色褪せた藍や枯れ草色、かつては鮮やかだったに違いない緋色まで、何百年分もの時間が染み込んで、すべてが同じ薄暗い灰色に沈んでいた。布の端はほつれ、糸がしおれた草のように垂れている。風もないのに、それらはわずかに揺れていた。
「古縫街道、ね」
リィナが独り言のように呟いた。いつもなら飄々と笑うくせに、今日は唇だけを動かしてすぐに口を閉じた。糸子はその横顔に昨日の話の残像を見た。消えた縫都シルタ。リィナの母親の縫い間違い。謝る間もなかった、と彼女が言ったときの声の質。
「入るぞ」
公爵が先に歩き出した。コートの裾にいくつも縫い付けられた記憶布が、布の暖簾に触れてかすかな音を立てた。糸子はリィナの袖を一度だけ引いてから、後に続いた。
暖簾をくぐった瞬間、空気が変わった。
温度ではない。重さ、だと思った。何か濃いものが皮膚にまとわりつくような感触があって、糸子は思わず息を止めた。周囲を見ると、天井も床も壁も、すべて布で覆われていた。いや、布が積み重なって、それ自体が地形を形成していた。踏み込むたびに足元がわずかに沈み、布の層が押し返してくる。
「記憶が堆積して固まったものだ」と公爵が前を向いたまま言った。「何百年分もの感情が染み込んでいる。人によっては幻覚を見る」
「人によっては、って」
「見ない人間もいる。運次第だ」
糸子が返す言葉を探していると、もうリィナが脇から口を挟んだ。「ちなみにあたしは毎回見る。いっぺんここを通ったことがあるんだけど、三日くらい頭が痛かったよ」と言ってケラケラ笑ったが、目は笑っていなかった。
通路は真っ直ぐではなかった。曲がりくねりながら奥へ続いていて、曲がるたびに壁の布の色が微妙に変わった。古い記憶ほど色が抜けていて、新しいものほどまだ鮮やかさの名残がある。糸子の体質が反応したのか、針と糸の入った腰のポーチがじくりと熱を帯びた。
最初の幻覚が来たのは、三十歩ほど進んだときだった。
突然、壁の布がひとところ波打って、ぼんやりと光を帯びた。光の中に輪郭が現れ、やがて人の形になった。子供だった。五つか六つほどの、知らない男の子が泣きながら母親の裾にしがみついている。母親はうつむいたまま動かない。子供の泣き声が聞こえた気がして、糸子は足を止めた。
「見てはいけない」
公爵の手が糸子の肩を掴んで、前へ向かせた。「幻覚は見る者の感情を引き込む。共鳴すると抜けられなくなる」
「でも、あの子が」
「記録だ。もうとっくに終わった話だ」
その言葉はどこか乱暴で、しかし嘘でもなかった。糸子は唇を噛んで前を向いた。
幻覚はそれ一つではなかった。
進むたびに、壁のあちこちから光が漏れ始めた。怒鳴り合う男と女。笑い声を上げて走り回る子供たちの群れ。誰かが布を裂く音。誰かが布に顔を埋めて肩を震わせる後ろ姿。感情の残滓だけが、形を借りてそこに存在していた。古縫街道は記憶の墓場であり、同時に記憶の見本市でもあった。
リィナが最初に足を止めた。
壁に浮かんだ光の中に、若い女が立っていた。リィナよりも少し背が高く、髪の色が似ていた。女は布を持ち、何かを縫っていた。しかし縫い目がほつれ、縫い直してもほつれ、また縫い直してもほつれた。女の手が震え始め、やがて布を抱きしめて膝をついた。
「リィナ」
糸子が呼ぶと、リィナは一拍遅れてまばたきをした。「ごめん。見てた」
「大丈夫?」
「うん」と言ったが声が掠れていた。「あれ、お母さんじゃないよ。似てるけど、違う人の記憶。分かってる」
分かっていても足が止まる。それが記憶というものの引力だった。
三人はなるべく壁から目を逸らし、足元だけを見て歩いた。しかし道が狭くなるにつれて、幻覚は壁だけでなく天井からも床からも滲み出すようになった。もはや逃げ場がなかった。
糸子が幻覚に捕まったのは、通路の中ほどを過ぎた頃だった。
気づいたとき、周囲の景色が変わっていた。古縫街道の暗い廊下ではなく、どこか明るく開けた場所にいた。地面は白い布で覆われていて、遠くで誰かが笑っている。風が吹いて白い布の端が翻り、花びらのように舞い上がった。
夢だ、と糸子は思った。夢の中にいる。
声が聞こえた。
──糸子。
名前を呼ぶ声だった。
糸子は体ごとそちらへ向いた。しかし声はどこから来るのか分からない。白い布の向こうから、遠くから、あるいはすぐ耳元から聞こえるような気もして、足が動かなかった。
──ねえ、糸子。
また聞こえた。子供の声だった。高くて、まだ変声期を迎えていない、男の子とも女の子とも判然としない声。しかし確かに、「糸子」と呼んでいた。
糸子、という名前を糸子は知らなかった。
名前の記憶を売り払った日のことを、糸子は覚えていない。何という名前だったか、それが自分を指す言葉だったことも、はっきりとは分からない。ただ今この声が「糸子」と呼ぶとき、それが自分のことだという確信だけがあった。根拠のない、しかし揺るぎない確信が。
足が震えた。
泣きたいのに、泣くための感情の形が掴めなかった。目が熱くなって、指先がしびれた。針と糸が腰のポーチの中で激しく熱を持ち、布を焦がしそうなほど震えていた。
──糸子、どこにいるの。
声が遠くなった。糸子は走り出そうとして、足が白い布に絡まった。転びかけたとき、誰かが肩を掴んだ。
「糸子」
呼ばれた。同じ名前を。しかし声が違った。低くて、乾いていて、感情の色を意図的に薄めたような声。公爵の声だった。
景色が崩れた。白い布が解けて糸になり、糸が霧になり、霧が散って古縫街道の暗い廊下が戻ってきた。
「どのくらい、いた?」
「二十秒ほどだ」と公爵が言った。「長くはない。しかし深かった。何を見た」
糸子は答える前に、一度だけ呼吸を整えた。「名前を、呼ばれた」
「誰に」
「分からない。子供の声だった」
公爵はしばらく沈黙した。その沈黙の中に何かがあるような気がして、糸子は横を見た。公爵の横顔は読めなかった。いつだってそうだ。継ぎ接ぎの布が縫い付けられた頬は感情を映さない。ただその目だけが、かすかに、何か遠いものを見ているようだった。
「ここを抜けるぞ」と彼は言った。「立てるか」
「立ってる」
「では歩け」
リィナが糸子の反対側に寄り添って、三人は再び歩き始めた。幻覚はまだそこかしこに漏れていたが、糸子はもう足を止めなかった。
古縫街道の出口は、入り口と同じように布の暖簾で塞がれていた。くぐり抜けると、草縫いの谷の冷たい空気が顔に当たった。石灰色の空の下に、古い草が一面に広がっていた。草は一本一本が細い糸のように見えて、風が吹くたびに波を打った。
「着いた」とリィナが言って、長い息を吐いた。
糸子も息を吐いた。腰のポーチの中で、針と糸がようやく熱を収めていた。
しかし「糸子」と呼んだ子供の声だけが、まだ耳の奥に残っていた。遠くて、近くて、どこか懐かしいような気がして、糸子はそれが何なのか分からないまま、前を向いた。
谷の奥に、煙が見えた。