草縫いの谷には、風がなかった。
いや、正確には風が吹いているのかもしれない。ただその風が、どこかで縫い止められたように身動ぎひとつしないのだ。糸子は谷の縁に立ち、眼下に広がる光景をしばらく黙って見下ろした。谷底には古い布地が幾重にも重なり、苔のように草が生えていた。よく目を凝らせば、それが本物の草ではないと分かる。記憶の布から染み出た緑の色糸が、まるで命を持つかのように地面を這っているのだ。
「綺麗だね」と、糸子は小さく言った。
誰かに向けた言葉ではなかった。ただ言わずにいられなかった。
隣に立つリィナは、古縫街道を抜けてからずっと口数が少なかった。幻の中で見た母親の顔について、彼女は何も話さなかった。糸子も聞かなかった。聞けるような顔を、リィナはしていなかったから。
少し後ろに、公爵がいた。
彼は谷を見下ろしてもおらず、かといって空を仰いでもなく、ただどこか定まらない場所を見ていた。体に縫い付けられた無数の布切れが、静止した空気の中で微かに揺れているような気がした。糸子の目の錯覚かもしれない。でも彼の体が何かを——微細な、見えない何かを——呼吸しているように見えた。
古縫街道を出る直前、公爵が糸子の手を引いた。
幻の子供の声が「糸子」と呼んでいた。見知らぬ庭の、記憶の残滓。糸子は引き込まれていた。気が付けば足元の布地が解けはじめていて、公爵の手がなければそのまま幻の中に縫い込まれていただろう。
彼の手は冷たかった。でも確かだった。
谷への下り道を探しながら、糸子は公爵の背中を見ていた。縫い合わせの痕が、首の後ろから肩にかけて走っている。他者の記憶を縫い付けた痕跡。彼の体はそういうものでできている。自分自身の記憶をどこかで失い、他者のものを借りながら存在を保っている。
では彼は、どこにいるのだろう。
その問いを糸子が初めて持ったのは、出会ってまもなくの頃だった。今それがまた、静かに浮かんで来る。
「下り口があった」と公爵が言い、岩肌に沿って切り開かれた細い踏み跡を指した。
三人は無言で下りはじめた。
*
谷底は、思いのほか温かかった。
何層にも重なった記憶布が熱を蓄えているのだろう。色褪せた緑と金と灰色が混ざり合い、足を踏み下ろすたびに柔らかく沈んだ。糸子は一歩ごとに、誰かの過去を踏んでいる気がした。不思議と、嫌な感じはしなかった。
リィナが先に休憩地点を見つけ、大きな岩のそばに荷を下ろした。糸子も続く。公爵は少し遅れて、ゆっくりと腰を下ろした。
「ここで一晩取るよ。谷を横切るには、夜明けの光が要る。夜の間は記憶布が逆流する」とリィナが言った。いつもの飄々とした口ぶりだったが、目の下がわずかに翳っていた。
糸子は自分の荷袋から布と針を取り出した。手持ち無沙汰のとき、針を持っていると落ち着く。それが自分の性質だと、名前を失う前から分かっていた気がする。いや——どうだろう。名前を失う前の自分のことなど、本当のところ何も分からないのだ。
針の先に指を当てながら、糸子は公爵を横目で見た。
彼は岩に背を預け、目を閉じていた。眠っているのではない。瞼の向こうで何かを見ている。そういう顔だった。
古縫街道の中で、公爵は何を見たのだろう。
糸子が幻に引かれていたとき、彼は動じた様子がなかった。強引に腕を引いて幻から連れ出し、「行くぞ」とだけ言った。表情は変わらなかった。いつもの、どこか遠い目をしていた。
けれど——
その直後に、糸子は見た。
谷への道を下りながら、公爵の視線が一瞬、どこかに止まったのを。それは幻の名残が残る道の脇、記憶布が分厚く積み重なった場所だった。他の場所と変わらない、何でもない一角。でも彼の目だけが、そこで静止した。
それからすぐに前を向き、何事もなかったように歩き続けた。
糸子は問わなかった。でも忘れなかった。
*
焚き火のかわりにリィナが取り出したのは、小さな記憶布の玉だった。温かな光を放つ琥珀色の布で、縫界の辺境では光源として使われることがあると彼女は説明した。
三人は光の輪の中に座った。
リィナはじきに荷の整理を始め、細かな音を立てながら布や糸の束を数えていた。糸子は針に糸を通したり外したりしながら、何かを縫おうとして縫えない手つきを繰り返していた。
しばらくして、公爵が口を開いた。
「幻を見た」
唐突な言葉だった。糸子は手を止めた。リィナも顔を上げた。
公爵の目は閉じたままだった。
「他者の記憶ではなかった」
静かな声だった。いつもの皮肉を含んだ声ではなく、ただ事実を確かめるような、低くて平坦な声。糸子は息を詰めた。
「庭があった」
それだけだった。
三文字で区切られた、たったそれだけの言葉。でも糸子の胸の中に落ちたとき、それは石のような重さを持っていた。
庭があった。
過去形だった。今はないということ。かつてあったということ。そしてそれを——縫い付けた他者の記憶ではなく——彼自身が知っているということ。
リィナが何かを言いかけて、やめた。
賢明だと糸子は思った。今この瞬間、余計な言葉はいらなかった。
公爵はそれ以上何も語らなかった。目を開いて、琥珀色の光をぼんやりと見ていた。その横顔はいつもより輪郭が柔らかく、何かを壊さないように慎重に運ぶ人間の顔をしていた。
糸子は指先に針を感じた。
彼女の体質は、感情が針と糸に乗り移る。今、針がひどく温かかった。それが自分の感情なのか、公爵の感情が伝わってきているのかは分からなかった。ただ確かなことは、この温かさには悲しみが混じっていた。火ではなく、燃え尽きた灰がまだ熱を持っているときの、あの種類の温かさだ。
「そう」と、糸子は言った。
問い返しでも、相槌でもなかった。ただ聞こえていると伝えたかった。
公爵は糸子を見なかった。でも微かに、首が動いた。わずかな頷きとも取れた。取れないとも言えた。
糸子はそれを、自分の中に仕舞った。
庭があった。
言葉を記憶することができる。名前を売り払った糸子に残された、数少ない確かな能力のひとつ。自分自身のことは何も覚えていられなくても、他者の言葉だけはどこかにしっかりと縫い付けられていく。
公爵の言葉も、きっと落ちない。
*
夜が深くなると、谷底の記憶布がほのかに光りはじめた。眠る前、糸子はその光の中に庭の輪郭を探した。花の形をした色糸が見えた気がした。見えなかった気もした。
リィナはすでに寝息を立てていた。
公爵の目はまだ開いていた。
「眠らないの」と糸子は聞いた。
「眠れない夜がある」と彼は答えた。
「幻の続きを見るから?」
少し間があった。
「逆だ」
静かな返答だった。糸子は首をかしげたが、それ以上聞かなかった。逆——つまり、幻が来ないから眠れない。何もない夜の方が、かえって眠れない。それがどういうことか、糸子には完全には分からなかった。でも輪郭だけは感じた。
記憶のない人間にとって、眠りとは何だろう。夢を見る場所、記憶を整理する場所——それが何も返さない夜は、ただの暗闇だ。
「庭のことを、また思い出せると思う?」と糸子は言った。
今度は間が長かった。谷底の布がひとつ、光の強さを変えた。
「分からない」と公爵は言った。「だが」
そこで止まった。
糸子は待った。
「今日、初めて思い出した」
「うん」
「それだけでは充分ではないが」
「うん」
「——なかったわけではなかった、ということは分かった」
糸子は目を閉じた。その言葉のかたちを、胸の中で確かめた。なかったわけではなかった。庭は確かにあった。公爵の中に、本物の記憶が、わずかでも残っている。
針が、また温かくなった。
今度は悲しみよりも、もっと複雑な何かだった。それを言葉にする方法を糸子は知らなかった。でも針は知っていた。針はいつだって、言葉になる前の感情を先に受け取る。
彼女は静かに目を開けた。
谷底の光が揺れた。どこか遠くで、記憶布が一枚解けていく音がした。かすかな、綻びの音。でもそれは消えていく音ではなく、何かが始まる前の静けさに似ていた。
公爵はまだ起きていた。
糸子もまだ起きていた。
翌朝、谷を越えたその先に何があるのか、まだ誰も知らなかった。