夜明けの光が、廃園に滲んでいた。
糸子が目を覚ましたとき、公爵の姿はなかった。毛布の端がきちんと折り畳まれていて、彼が几帳面に去っていったことだけが分かった。昨夜の言葉が、まだ胸の内側にひっかかっている。翌朝には出発する、と彼は言った。当然のことのように、何かを断ち切るように。
糸子は膝を抱えたまま、しばらく天井を見つめた。蔦が這う石造りの壁、色褪せた桃色の記憶布が垂れ下がって、朝風にゆっくりと揺れている。この廃園全体が、誰かの忘れ物のようだった。
布団代わりに使っていた厚手の布を畳み、糸子は建物の外へ出た。
朝の廃園は、夜とはまるで違う顔を持っていた。
霧が低く漂い、石畳の隙間から青みがかった光が滲み出している。それは記憶布の残滓が微弱に発光しているせいで、踏みしめるたびにほんのりと温かみが足の裏に伝わってきた。糸子はその感触が不思議と嫌いではなかった。誰かが大切に思っていた場所の、最後のぬくもりのような気がして。
庭の奥へと歩いていくうちに、足元に何かが光るのが見えた。
しゃがんで覗き込むと、土の中に半ば埋もれた布の断片が一切れ。指でそっと掘り起こすと、薄い絹のような手触りで、白と萌葱色の細かな刺繍が施されていた。花の模様だ。糸子にはすぐ分かった。縫界に長く生きるものなら誰でも知っている、記憶布に宿った植物の形象。誰かがここで花を愛でていた、その記憶の欠片。
立ち上がって見回すと、あちこちに同じような断片が落ちていた。
石畳の割れ目に挟まったもの、枯れた木の根元に絡みついたもの、壁のタイルの裏側に貼り付いたもの。どれも小さく、色は褪せているが、刺繍の線だけは不思議なほど鮮明に残っていた。糸子は一つひとつを丁寧に拾い集めながら、庭の奥へと進んだ。
そして、枯れ噴水の縁に腰かけた人影を見つけた。
公爵だった。
膝の上に広げた布の上に、細かな断片を並べている。その手つきは静かで、丁寧で、糸子が今まで彼に見たことのない種類の穏やかさを帯びていた。まるで、長い時間をかけて積み上げてきた習慣のように。
「……集めてたの」
声をかけると、公爵は顔を上げた。驚いた様子はなかった。ただ少し間を置いて、「邪魔をするな」とだけ言った。
「邪魔してない。同じことしてた」
糸子は手の中の断片を見せた。公爵の視線が一瞬、そこで止まった。
「どこで」
「そこらじゅうに落ちてたよ。あなた、ずっとこうして拾ってたの?」
返事はなかった。沈黙は肯定に等しかった。糸子は噴水の縁の、公爵から少し離れた場所に腰を下ろした。
二人の間で、断片たちが朝の光の中に並んでいた。大小様々で、模様もばらばら。でも全部に花の意匠が入っていた。チューリップに似た形、細い花弁を持つもの、丸く膨らんだもの。かつてここが、花々で溢れた庭園だったことを物語っていた。
「この庭、どんな場所だったんだろう」
糸子は独り言のように言った。
「知らない」
「でも集めてるじゃない」
「捨てられないだけだ」
短い言葉だったが、糸子はその中に何か硬いものが入っているのを感じた。捨てられないという感情は、公爵にとっては珍しい種類のものなのかもしれない。他人の記憶布だけで存在する彼にとって、自分の意志で何かを「手元に置く」という行為は、どれほどの重さを持つのだろう。
糸子は断片を一つ手に取った。
その瞬間、指先に微かな震えが走った。針と糸が呼んでいる、あの感覚だった。感情が針先に宿り、糸がそれを追いかけて、縫い合わせたいという衝動が体の芯から込み上げてくる。糸子はその感覚をもう抑えようとしなかった。昨夜、公爵に自分の体質を話してから、少しだけ楽になっていた。
「縫ってみていい?」
公爵が顔を上げた。
「断片を、繋ぎ合わせてみたい。何が起きるか分からないけど」
しばらく、公爵は黙っていた。糸子は急かさなかった。廃園の朝の静けさの中で、遠くで何かの鳥が鳴いた。
「好きにしろ」
それだけだった。
糸子はポケットから針を取り出した。細く、光を透かすと青みがかった、いつも持ち歩いている縫い針だ。糸は自然と指先から出てきた。自分でも説明のつかない、この体の不思議な産物。感情の色を帯びた糸が、針の穴を通り、準備が整った。
糸子は断片を膝の上に広げ、形を合わせていった。
最初の一針を刺したとき、布の中で何かが目を覚ます気配がした。糸子は手を止めずに縫い続けた。断片と断片の境界が、針の通り道に沿って溶けるように馴染んでいく。刺繍の線が繋がり、途切れていた花の輪郭が一本の流れを取り戻していく。それは修復ではなかった。何か別の、もっと静かな営みだった。
縫い合わさった布が、微かに震えた。
そして、光った。
白と萌葱の刺繍から、淡い輝きが滲み出したかと思うと、布の表面に小さな花の芽が生まれた。糸子は息を飲んだ。芽は細い茎を伸ばし、葉を広げ、花弁を一枚ずつ開いていった。現実の花ではない。記憶で編まれた、光の花だ。でもその形は確かで、細部まで鮮明で、触れれば感触があるほどに実体を持っていた。
花は一輪、静かに咲き切った。
糸子は顔を上げた。
公爵が、目を見開いていた。
それだけで充分だった。皮肉の言葉も、静かな拒絶も、無表情の仮面も、全部消えていた。ただ純粋に驚いている、その顔が、糸子には何よりもはっきりと見えた。
「……なんだ、これは」
声が、かすれていた。
「記憶の花」
糸子は答えた。自分でも驚きながら、でも妙に確信を持って。「ここにあった記憶が、繋がったんだと思う。断片のまま散らばってたものが、ちゃんと形になって」
公爵は花に手を伸ばした。触れる寸前で止めた。その指先が、わずかに震えているように見えた。
「消えるか」
「分からない。でも、今は咲いてる」
二人はしばらく、その花を見ていた。廃園の朝の光の中で、記憶の花は静かに光り続けた。石畳も枯れた噴水も、褪せた壁も、全部が少しだけ違う場所に見えた。壊れたままでいい。でも、ここに何かがあったことは、消えていない。そういうことを、花が言っているような気がした。
「行くの? 今日」
しばらくして、糸子は聞いた。
公爵は花から目を離さずに、「……少し待て」と言った。
糸子は笑わなかった。笑ってしまったら、この朝の均衡が崩れる気がした。ただ頷いて、また花を見た。
二人の間の距離は変わっていなかった。でも、その間に何かが一本、細く、確かに通った。糸のように。
記憶の花は、昼になっても咲いていた。